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詩篇 119章1〜8節 2017年9月3日 |
おのが道を全くして、
主のおきてに歩む者はさいわいです。(1) 一一九篇は詩篇の中でも一番長い詩篇です。8節ごとに一つのかたまりになっており、それぞれのかたまりの最初に、アレフ、ベス、ギメル・・・とヘブル語のアルファベットが書かれています。ヘブル語のアルファベットは二二文字ですから、8×22で一七六節です。そしてそれぞれのかたまりは、各節が最初に書かれた文字で始まっています。
この一一九篇の大きなテーマは御言です。今日の箇所だけでも「おきて」「あかし」「さとし」「定め」「戒め」といろいろな言葉で言い換えていますが、主が語られる御言、主が与えられた律法のことを語っているのです。
この1節はさいわいだ(アシュレー)という言葉で始まります。さいわい、祝福の源泉はまさに主のおきてに歩むということだ、主の御言に目をとめ、それを学び、それを守り、それに歩む時に、主の祝福にあずかることができるのだということが、この一一九篇の大切な中心メッセージなのです。
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詩篇 119章9〜16節 2017年9月4日 |
若い人はどうしておのが道を
清く保つことができるでしょうか。
み言葉にしたがって、
それを守るよりほかにありません。(9) 若い時は、私たちの生涯の土台・基礎を造っていくとても大切な時期です。若者たちはとても純粋な主に対する思いを持っています。しかし同時に若い時期はいろいろな誘惑も多いものです。この詩篇では、若い人が、自分を清く保つことの困難さが取り上げられています。もちろん、性欲も名誉欲も人間に与えられたとても大切な欲求です。それが正しく用いられるなら、豊かな祝福をもたらします。しかし、人間の中にある欲求を人が自分のためだけに用い始めるときに、それらの欲求はその人自身も、またその人の周りにいる人たちも不幸にします。
もちろん若い人だけの問題ではないでしょう。私たちすべてが、誘惑に陥ることなく、清い歩みをするために大切なのは、また、そのように生きる唯一の道は、「み言葉に従って、それを守る」ということです。み言葉は単なる「規則」ではありません。み言葉は私たちに清く生きる力を与えてくれるのです。
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詩篇 119章17〜24節 2017年9月5日 |
わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちの
くすしき事を見させてください。(18) 神の言葉を聞き、それを読み、またそれに触れているということはとても大切なことです。普段から御言に触れていると、いざという時に、普段から聞いていた御言が頭に思い起こされて、私たちを支えるからです。ですから、分かっても分からなくても御言を聞き続けるということはとても大切なことなのです。
ただ、その御言の意味が分かってくると、神の恵みの豊かさをさらに深く味わい知ることができます。そして、その御言の中にある神の豊かな恵みが分かるために、この詩篇の記者は「わたしの目を開いて」ください、と求めます。もちろん、これは私たちの肉体の視力のことではなく、心の目のことです。そこに神の不思議が明らかにされていても、心の目が閉ざされていたら、それに気づくことはできません。しかし、私たちの心の目が開かれる時に、神の恵みの豊かさが分かるようになっていきます。主の恵みによって、日々心の目を開いていただきましょう。
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詩篇 119章25〜32節 2017年9月6日 |
偽りの道をわたしから遠ざけ、
あなたのおきてをねんごろに教えてください。(29) 「偽りの道」があります。その道は見た目には整っていて、まるで豊かさや祝福につながっているかのように見えます。その道を進むのは、他の道を選ぶよりも楽で、多くの人たちがその道を歩んでいるかもしれません。しかし、その道は迷いと滅びとにつながっているのです。その道は偽りです。そして、多くの人たちが惑わされ、迷わされるのです。私たちはそのような偽りに惑わされないようにしたいと思います。ただ、その惑わし、落とし穴に陥らないためには、私たちは主の助けと導きを必要としています。
もう一つ、偽り・偽物にだまされないために大切なことがあります。それはいつも本物を見、触れ、知っているということです。ですからこの詩篇の作者は「あなたのおきてをねんごろに教えてください」と言いました。本物があります。それは主の言葉です。私たちは偽りを見分け、その惑わしに陥らないために、いつも主の御言に触れ、その御言に生かされ続けていたいと思います。
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詩篇 119章33〜40節 2017年9月7日 |
わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、
あなたの道をもって、わたしを生かしてください。(37) この詩篇の記者は「ほか」「むなしいもの」に目を向けることなく、主の道を見つめて生きることができるようにと祈り求めます。私たちを惑わそうとする雑音や、私たちの目をひこうとする一見魅力的なものが私たちの周りにはいろいろあるかもしれません。そして私たちは目を奪われ、一番大切なものから目を離してしまうのです。パウロは、わたしは「この一事を努めている」と言いました(ピリピ三13)。ヘブル書の記者は「イエスを仰ぎ見つつ、走ろう」(ヘブル十二2)と勧めています。キョロキョロするのを止めて、私たちに信仰を与え、またその信仰に歩ませ、それを完成して下さるお方を見つめるのです。
私たちの信仰とはまさに、私たちがどれだけしっかりしているかということではなく、変わることのない主にかかっています。私たちは一時的な利害や損得ではなく、
私たちを救い、また生かしてくださる主にすがり、主を求め、主を見つめて歩みたいと思います。
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詩篇 119章41〜48節 2017年9月8日 |
またわたしの口から真理の言葉を
ことごとく除かないでください。
わたしの望みはあなたのおきてにあるからです。(43) 昔の聖徒たちは御言を読むという習慣をほとんど持っていませんでした。そもそも印刷技術のない昔は本はとんでもなく貴重で、手書きで筆写しなければなりませんでしたから、とても高価でした。基本的には多くの人は、誰かが読んでくれる聖書の御言を耳で聞いたのです。ただ耳で聞くだけでは、なかなかそれを覚えることはできません。ですから、人々は耳で聞いた神の言葉を復唱しました。また家で子どもたちに語ったり、他の人々と共に御言を歌ったのです。
「真理の言葉を口に置く」とはそういうことです。まるで牛や羊が食べた草を何度も反芻するように、人々はまさに、御言を口で味わったのです。その意味で、御言を朗読するということは、今でもとても大切なことです。
この詩篇の記者は自分の望みを御言に「あなたのおきてに」置きます。神の約束、そのいつくしみはいつまでも変わることはないからです。
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詩篇 119章49〜56節 2017年9月9日 |
あなたの定めはわが旅の家で、
わたしの歌となりました。(54) 私たちの生涯はまさに旅のようなものです。私たちの地上の歩みは永遠ではありません。出発があり、終わりがあります。どんなに地上に未練があっても、この世を去って行かなければならないときがやってきます。私たちはこの地上に家を建て、また自分の家を持つかも知れません。しかし、その家は永遠のすまいではありません。ほんの短い期間、私たちは地上を歩むに過ぎません。
そしてその地上の旅路には多くの困難があります。悩みがあり、あざける人たちと向き合わなければならないときがあり、悲しみの中を通らなければならないときがあります。しかし、この詩篇の作者は御言に思いを向け、御言を歌いながら歩んで行きます。そして御言に思いを向ける中で、主は作者に慰めと命を与えられていくのです。
彼の地上の旅路はやがて終わったことでしょう。しかし、彼は地上で歌った歌をうたいながら主をあがめつつ天の住まいに移されたはずです。
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詩篇 119章57〜64節 2017年9月10日 |
わたしはあなたの戒めを守るのに、
すみやかで、ためらいません。(60) 主の御言を聞くにも聞き方があります。単に耳で聞くだけでなく、私たちは語られた御言に従わなければならないのです。日本語でも「きく」という言葉に耳できくという意味と共に、言われたことに従うという意味があるのと同じように、旧約聖書の言葉であるヘブル語でも、きく(シャーマー)という言葉には「従う」という意味が含まれているのです。
ですからこの詩篇では「み言葉を守る」とか「足をかえして、あなたのあかしに向かいます」と語られます。語られている御言に従い、主の御言に添った歩みをしていくのです。ただここで「従う」という時に、もう一つ大切なことがあります。それは「すみやかに」「ためらわずに」従うということです。神の言葉を聞くとき、大切なことは主が語られるのを聴いたら、すぐに従うということです。もちろん、主は私たちの弱さも分かってくださいます。時に従おうとするときに足がすくむことがあることも知っておられます。しかし、主は私たちに従う力をも与えてくださるのです。
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詩篇 119章65〜72節 2017年9月11日 |
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。(71) 私たちは、苦しみにはあいたくないと思います。また苦しみにあうことは「災難」であり、「災い」であり、望ましくない、悲しいことであると思います。また苦しみにあうときに、神に見捨てられているように感じるかも知れません。この詩篇の記者も苦しみにあいました。もちろん、彼も苦しみにあいたくはなかったことでしょう。しかし、彼が苦しみの中を通り過ぎて、振り返ったときに、彼はそれは「わたしに良い事」だったというのです。
彼はなぜ苦しみにあったことを良い事と言ったのでしょう。それは苦しみの中を通ったからこそ、知ることができたことがあった、苦しみの中で神の御言を学んだ。あの時学んだことは、あのような経験がなかったら学ぶことができなかっただろう、と言うのです。苦しむ前には御言が分からなくて迷っていた彼が、苦しみの中でも共にいて支えてくださる主を知ったのです。
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詩篇 119章73〜80節 2017年9月12日 |
あなたのみ手はわたしを造り、
わたしを形造りました。
わたしに知恵を与えて、
あなたの戒めを学ばせてください。(73) 神はその御言をもって世界を創造されました。そして神はその創造の最後に人間をも造ってくださいました。私たちはみな神の作品です。確かに私には父親がいて、母親がいて、生まれてきます。しかし母親の胎内で、私たちを形造ってくださったのは神です。そして、その神は私たちが生まれたらそれで終わりではありません。主は私たちがこの世に生まれてからもなお、私たちを造り続けてくださっています。大人になったら終わりということでもありません。私たちは一生育ち続け、神のみ手の中にあって形造られ続けていくのです。
その過程で、苦しみや悩みにあうこともあるでしょう。また高ぶる者・偽る者と向き合わなければならないこともあるに違いありません。しかし、そのような中にあっても、私たちは神のご真実を知り、神の慰めをいただき、神からの喜びを経験することをさせていただきます。そして、それらの中で私たちを支え、導くのは神がわたしに語られた御言の約束なのです。
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詩篇 119章81〜88節 2017年9月13日 |
わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。
わたしはみ言葉によって望みをいだきます。(81) 私たちは信仰をもって歩んでいても様々な苦しみの中を通ることがあります。慰めを求めているのに、どこからも慰めを得られず、人々は自分を陥れようとしています。正しい道を歩んで行こうとしているのに迫害に遭い、神を信じて歩んでいる自分が滅ぼされようとしているのにどこからも助けがないのです。苦しみの日が際限なく続くように感じられる中で、この詩篇の記者はそれでも主の約束にすがります。主がこのようにおっしゃったからというその御言に望みを置きます。
多くの人々が主の御言を捨て、望みを失って、自暴自棄になって罪の中に沈んでいく中で、彼は主のおきてを守ります。目に見えるところがどうであったとしても、変わることのないどこまでも確かなものは、神であり、その御言です。そして私たちは御言を信じて、主が約束してくださった救いの日を待ち望むのです。
時に、私たちは待ち望みつつ、この地上の生涯を終えるということもあるかもしれません。しかし、それでも、主にすがり、主を信じて歩んだ者を主は決して裏切られることはありません。
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詩篇 119章89〜96節 2017年9月14日 |
あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。わたしは常にあなたのさとしを忘れません。あなたはこれをもって、わたしを生かされたからです。(92〜93) 悪しき者は待ち伏せし、主を信じる者を滅ぼそうと待ち構えています。時に悪しき者は強く揺るぎないように思えるかもしれません。しかしどんなに大きく強く豊かに見えたとしても、すべてのものには限りがあり、またその土台はいつかは崩れてしまう頼りないものです。この詩篇の記者は、困難の中にあって、敵の強さを認め、自分の弱さを知りながらも、主のあかしを思い巡らしています。
主が世界を造り、主がその基をすえられました。世界はすべて神の御言によって創造されました。神の御言こそが確かなものであり、また神の御言に支えられている者こそが確かな歩みをすることができるのです。ですからこの記者は、自らも神の御言に立ち続けようとしています。困難や悩みがないわけではありません。しかし、主のおきてを喜びとして歩んで行きます。その時に、どんな中にあっても生きることができる、彼はそのように告白するのです。
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詩篇 119章97〜104節 2017年9月15日 |
あなたのみ言葉はいかにわがあごに
甘いことでしょう。
蜜にまさってわが口に甘いのです。(103) この詩篇の作者は心から主の御言を愛しています。彼は神の御言を深く思います。何度も何度もその御言を思い、心に深くその御言をとどめます。悪魔は私たちが御言を読んでも、すぐにそこから思いを他に向けるようにとたくらみます。そして私たちの心から御言を奪い取っていくのです。しかし、私たちがその御言を深く思い、またその御言に教えられ、従って行くときに、私たちは知恵を与えられ、賢く、正しい道を歩むことができます。
神の御言から離れず、それに従うというのは、単にそれがおきてであり、ルールだからではありません。神を愛し、またそのおきてを愛しているからです。それは決して私たちを縛り、不自由にする窮屈な言葉ではなく、私たちに喜びと自由を与える恵みの言葉なのです。この作者は神の御言は甘いと言います。神の言葉を食べる、という言い方があります。心のご飯・栄養だからということとともに、文字通り、作者は何度も御言を口に出して朗読し、思い返して語りながらそれを麗しい言葉として味わったのでしょう。
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詩篇 119章104〜112節 2017年9月16日 |
あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。(105) 私たちがこの地上の歩みを歩んで行く時、私たちは多くの誘惑にあい、また迷いを経験します。私たちの知っているところはあまりに制限されていますし、私たちは自分の欲に引かれ、自分が望むことに引きずられてしまいがちです。そして、神の御心とは違う判断を積み重ねていくうちに、私たちは祝福の道を大きく外れてしまうのです。
この世の罪の闇の中にあって、私たちを正しく導くのは神の御言です。どんなに暗い夜道でも、あかりを手にしていたら道を外れなくてすみます。同じように、御言は私たちの足もとを照らし、私たちを危険から守ると共に、私たちを正しい道に導いてくれます。わながあります。危険があります。迷わすものがあります。しかし私たちが御言の光に従って、神の御言に聞き従っていくなら、主は私たちを間違いなく祝福の道へと導いてくださいます。私たちは不安を感じることがあるかもしれません。しかし、主は正しい道を知り、その道を歩ませる力を持っておられるからです。
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詩篇 119章113〜120節 2017年9月17日 |
あなたの約束にしたがって、
わたしをささえて、ながらえさせ、
わが望みについて恥じることの
ないようにしてください。(116) 悪をなす者は人を欺き、神も、そのおきても恐れることをしません。まるで、自分の思いのままに生きること、自分の欲望に従って生きることが自由であるかのように歩む多くの人々がいます。神に従い、神を信じて生きることが不自由で、神に対しても自由になることこそが人間らしい生き方だと言う人々がいます。そして、そういう人々がこの地上においては案外成功し、多くの富を得、人々をひきつけているかもしれません。しかし、神から自由になって、神の言葉を無視して生きることは罪の奴隷としての道であり、元々、神によって造られた人間を滅びに追いやってしまう道です。
神の御言、そのお約束は変わることはありません。神を信じ、その御言に望みを置いて生きる者は、この地上においては一見、損な歩みをしているように思えるかもしれませんが、決してはずかしめられて終わることはありません。主はそのお約束にすがって生きる者を支え、平安をもって満たしてくださいます。
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詩篇 119章121〜128節 2017年9月18日 |
それゆえ、わたしは金よりも、
純金よりもまさってあなたの戒めを愛します。(127) 金は非常に価値があります。いろいろなことで、ものの価値が変わっても、金は価値は変わらない安全な資産だと言われます。金の輝きは時代が変わっても残っていきます。混じり物が多く入っているとその価値は下がっていきますし、また時間と共に朽ちていったりしますが、特に純粋な金は価値が上がることはあっても下がることはないでしょう。時代や国は変わっても、金の輝きは多くの人々を魅了してきました。ただ金は同時に、それを巡って多くの戦いをも引き起こしてきました。金を前にして人の欲望があらわにされました。
しかし、この記者は金よりも、純金よりも、神さまの戒め、その御言を愛します、と告白します。どんな純金よりも確かで、価値の変わらないもの、またどんなに貴重な宝よりも大きな価値をもっているもの、それが神の御言なのです。私たちはどんな金銀宝石などの宝をも越えて、価値があり、私たちの一生を飾り、とても豊かにしていく神の言葉を愛し、求めるお互いでありたいと思います。
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詩篇 119章129〜136節 2017年9月19日 |
み言葉が開けると光を放って、
無学な者に知恵を与えます。(130) 神さまの御言は驚くべきものです。私たちが想像も予想も期待もしなかったようなことが御言を通して起こっていきます。まさに神の奇跡は御言を聞き、信じ、従うところから起こってくるのです。御言は光を放ちます。御言は読む人の姿勢によって違った輝きをもってくるかもしれません。御言を聞いても、聞き流していたり、信じることをしなかったり、従う気持ちがなかったりすると、御言の奥義、その輝きを見ることができないからです。しかし、御言にしっかり目をとめ、深くそれを思う時に、私たちは「御言が開ける」経験をします。御言が開け、神がどんなに恵み深く、いつくしみに富んだお方かが見えてくるのです。
そして御言が開けていくときに、時に貧しく、また愚かな私たちに、神の知恵が豊かに与えられます。どれだけ多くの本を読み、またどれだけ優秀な学校で学ぶよりもずっと豊かで確かな知恵が御言を通して与えられるのです。
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詩篇 119章137〜144節 2017年9月20日 |
わたしは取るにたらない者で、人に侮られるけれども、
なお、あなたのさとしを忘れません。(141) この詩篇の記者は自分のことを「取るに足りない者」と言います。自分でもそのように思うし、また自分のことをあざけり、さげすむ人々の声が耳に入るにつけ、ますますそのように思ったことでしょう。自分の小ささ、弱さ、愚かさ・・・それを否定することはできません。正直に自分を見るなら、人に言われるまでもなく、その通りだと思います。
しかし、どんなに小さく、あざけられても仕方のない者であったとしても、彼には力がありました。それは主のさとしをしっかりと自分のうちに握っているということからくる確信でした。主の言葉は正しく、また確かです。ですから、主のお約束にすがっていたら、何も心配いりません。主の言葉はどんな知者にまさって確かな知恵を私たちに与えます。また、この主の言葉は、どんな悩みや苦しみの中にあっても、私に喜びを与え、いのちを与えます。だからどんなに自分が小さく、また困難な中に置かれたとしても、心配はいらないのです
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詩篇 119章145〜152節 2017年9月21日 |
しかし主よ、あなたは近くいらせられます。
あなたのもろもろの戒めはまことです。(151) この詩篇の記者は困難の中にあって主に叫んでいます。彼をしいたげ、悪いたくらみをもって破滅させようとする人が近づいてくるのを知っているからです。それは作者に非常に大きな恐怖を与えたことでしょう。だから彼は心をつくして、また朝早く起き出て神に呼ばわります。私たちは一日の業を終えて、休みます。そして朝が来て、目覚めるときに、その新しい一日もまた様々な戦いがあることを知っています。ですから一日、いろいろな働きを始める前に、主に祈るのです。朝、聖書を開いて読むことが勧められているのもそのような意味があります。その一日を始めるにあたっていろいろな惑わす言葉、私たちを不安にさせる言葉を聞いて始めるのではなく、私たちに真の平安と望みを与える主の言葉を聞いて始める・・・。私たちが主の約束を深く思う時、主は私たちに平安を与えてくださいます。主の言葉が心にとどまっているとき、私たちは主が近くにいてくださることを知るからです。
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詩篇 119章153〜160節 2017年9月22日 |
あなたのみ言葉の全体は真理です。
あなたの正しいおきてのすべては
とこしえに絶えることはありません。(160) 詩篇の記者は「あなたのみ言葉の全体は真理です」と告白します。神の言葉はある部分は本当で、ある部分はフィクション(空想・作り話・おとぎ話・神話)で、ということではありません。神の言葉は全体が真理です。神の言葉である聖書には間違いはありません。もちろん、翻訳の段階で翻訳者が間違った受け止め方をしてしまうことはあり得ます。しかし、それは聖書そのものの間違いではありません。ある人は「聖書は神の言葉を含んでいる」と言います。その背後にあるのは、人間の理性で受けいられられない部分については真理ではない、だから神の言葉でもない、という考え方です。理性や常識が神の言葉が真理かどうかを判断するものさしになるというのです。けれども、もしそうであったら、私たちは何を信じたらよいのでしょうか。私たちが聖書の一部を取り上げてこの部分は真理だと主張しても、それもまた不確かかもしれません。しかし、詩篇の記者も、主イエスも、そして教会も、御言の一点一画に至るまで変わることなく、真理なのだと言うのです。
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詩篇 119章161〜168節 2017年9月23日 |
わたしは大いなる獲物を得た者のように
あなたのみ言葉を喜びます。(162) 狩りをする人たちは、獲物を捜して野山を駆け巡り、獲物を見いだすとそれを追っていきます。そしてついに、その獲物を仕留めたとき、その狩人は大きな喜びの中で、獲物を携えて家に戻ります。狩人にとって、獲物を獲ることができるかどうかは、どちらでもよいことではありません。まさに自分の、そして家族の命とその生活がかかっています。それは真剣勝負です。ですからなおさら、獲物を得たときの喜びは大きいのです。
私たちが御言を読むこともそれと似ています。私たちは聖書を読みます。その中で、自分の一日を支えてくれる神の言葉を聞くのです。私たちが自分に語られている神の語りかけとして聖書を読み、聞くときに、私たちは大きな喜びに満たされます。そして私たちは与えられた御言をしっかり握って一日を歩みます。御言は私たちに平安を与え、私たちを守ります。私たちに賛美と喜びを与えて、どんな困難の中にあっても私たちを支えるのです。
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詩篇 119章169〜176節 2017年9月24日 |
あなたの定めをわたしに教えられるので、
わがくちびるはさんびを唱えます。(171) 一一九篇も最後になります。ヘブル語のアルファベット22文字目のタウで始まる言葉が八節にわたって取り上げられます。御言は私たちに知恵を与え、私たちを助け、私たちを救い、喜びを与え、また正しい道へと導いてくれます。
神の言葉は決して、何か規則集のようなものではありません。神の御心を示して、私たちに努力と修練を促し、神の規範に達していない私たちにダメ出しをするためにあるのではありません。「あなたの定めをわたしに教えられる」というのは、私たちに神の御心を示し、その中を歩むことができるようにするということです。神の言葉は死んだ文字ではなく、私たちを生かす命の言葉です。ですから神の定めを教えられたこの作者は、落ち込むのではなく、御言を歌い、神を賛美します。御言を教えられるときに、作者の心はますま大きな喜びに満たされていったからです。神の御言に生かされ、神をほめたたえ続けて歩むお互いでありたいと思います。
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