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申命記 1章1〜8節     2016年1月4日

見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である。(8〜9)

 今日から申命記に入ります。「申」には再びという意味があります。ですからこれは、再び命じた記録ということになります。実は申命記は全体が、四十年にわたってイスラエルの荒野の歩みを導いてきたモーセが、イスラエルの民に語った告別説教です。モーセはヨルダン川の東側でその生涯を終え、イスラエルの民はこれから約束の地に入って行こうとしていました。その前にモーセは、四十年にわたる神の導きを覚え、これからのイスラエルの歩みを思って最後のメッセージをするのです。
 モーセはもう一度、神の律法を語り、説明し、神の言葉に従って生きるように勧めると共に、主が約束してくださったその約束の言葉を信じて進むようにと民を励ましました。
 神は、約束の地を、イスラエルの民の前にすでに置いておられました。ただその地に入っていってそれを自分のものにするのは、イスラエルの民の責任でもあったのです。

申命記 1章9〜18節     2016年1月5日

わたしひとりで、どうして、あなたがたを負い、あなたがたの重荷と、あなたがたの争いを処理することができようか。(12)

 イスラエルの民がエジプトに下った時には、七十人だったと言われます。しかし、この時には戦いに出ることのできる男の数だけで六十万人。アブラハムに与えられた約束の子はイサク一人でしたが、まさに主はアブラハムに約束されたように、空の星の数のように、イスラエルの民を増やしてくださいました。その意味では、今、教会に集う人々が少なかったとしても、主を信じる者たちを空の星の数のように多くしてくださる主に信頼し、期待したいと思います。
 しかし、人が増えるということは同時に問題も増えるということでもあります。モーセは一人で全部を負うことはできませんから、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長といったリーダーたちを立てて、小さな問題については小さなグループの中で解決するようにしました。神にゆだねられた知恵を用いて、さばきが行われたのです。

申命記 1章19〜33節     2016年1月6日

あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった。(31)

 イスラエルの民はホレブの山で、神の臨在に触れ、また神に律法を与えられて、神との契約の中に生きる者とされました。そして彼らはカデシ・バルネアに滞在中に、そこから約束の地に偵察隊を送り出したのでした。偵察隊はその地のくだものを持ち帰り、その地がどんなにすばらしい地かを語りました。しかし同時に、彼らはそこにある町がどんなに高い石垣で囲まれ、またその地に住む人々がどんなに背が高い人々かを語って、その地に入って行ったら、自分たちは滅ぼされてしまうと人々を扇動しました。
 しかし、モーセは、神がエジプトからどのように彼らを救い出してくださったかをもう一度思い起こさせようとしました。エジプトからの脱出の時だけではありません。神はいつも、人がその子を抱くように、イスラエルを抱くようにして導いてこられたのです。イスラエルの民が滅びるようなことをたくらまれることがどうしてあるでしょうか。 

申命記 1章34〜46節     2016年1月7日

ただエフンネの子カレブだけはそれを見ることができるであろう。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えるであろう。彼が全く主に従ったからである。(36)

 偵察に行った十二人の中で十人は不信仰な言葉の大合唱をしました。それを聞いたイスラエルの民はすっかり弱気になってしまい、モーセの励ましも、またヨシュアやカレブの信仰の言葉も聞くことができなくなってしまいました。不信仰な言葉が周りに及ぼす影響の大きさを思います。
 その不信仰の結果、その時点で成人だった世代の人々は主が約束してくださった良い地に入ることができなくなってしまいました。ある意味、彼らの言っていた通りになってしまったとも言えます。そのような中でも神はヨシュアとカレブが主に従ったゆえに、彼らの信じたとおりに、主が約束された祝福の地に入ることを許してくださったのでした。
 あとで、イスラエルの民が、「われわれは上っていって戦いましょう」と言い出した時にはもう手遅れでした。従う決断をすべき時を逃してはならないのです。



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