バックナンバー
|
イザヤ 44章1〜20節 2018年2月3日 |
わたしは、かわいた地に水を注ぎ、
干からびた地に流れをそそぎ、
わが霊をあなたの子らにそそぎ、
わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。(3) 私たちの主は、私たちを選び、私たちを造り、私たちを助けてくださるお方です。ここではヤコブもイスラエルの民のこと、エシュルンもイスラエルの愛称です。イスラエルの地においては雨季と乾季がはっきり分かれていますので、一年中流れる川や、井戸・泉などが生命線になりました。主は、まさにかわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを与えて下さるお方です。それはまさにこのお方こそが祝福の源であることを示しています。しかし、どんな祝福にまさって、主は私たちの渇いた心に、主の霊と恵みを注いで下さるのです。このような救いをもたらすことのできる方は他にはありません。
けれども、イスラエルの民はしばしばこの主を捨てて、木や石や鉄で造った偶像を拝みました。9節以降では偶像を拝むということがどんなに愚かなことかが語られています。主だけがまことの岩、わたしたちを守り、救い、また命を与えることのできるお方なのです。
|
イザヤ 44章21〜28節 2018年2月4日 |
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。
わたしに立ち返れ、
わたしはあなたをあがなったから。(22) イスラエルはかつてエジプトで奴隷でした。しかし、主はそこからイスラエルの民を救い出してくださいました。イザヤの時代から百年後、エルサレムを首都とする南ユダ王国もバビロンに滅ぼされようとしていました。バビロンの地に捕囚として連れて行かれた民は、自分たちはもうおしまいだと、悲嘆に暮れたかも知れません。しかし、主は出エジプトにもまさる大きな業をしようとしておられました。自らの罪のゆえに国を失ったイスラエルが再びあがなわれるのです。そこには、罪をあがない、罪をゆるす、主の大きなあわれみがありました。もう二度と主のみ顔を仰ぐことなど許されないと思われたのに、主は彼らをあがない、彼らの罪やとがを吹き払い、消し去ったというのです。主はもう一度、「わたしに立ち返れ」と民を招いておられます。そしてこの招きは私たちにも向けられています。私たちのためにも罪の赦しの道が用意されているのです。
|
|
|