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イザヤ 6章1〜7節 2017年12月21日 |
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。(1) イザヤの時代、まだ南王国ユダは一見繁栄しているように見えたかもしれません。外見的には主の宮で礼拝が献げられ、祭が祝われていました。しかし、人々の心は遠く神から離れていました。イザヤは「わざわいなるかな」と語り、主の裁きを告げます。そのような中で彼のところにウジヤ王が死んだというニュースが飛び込んできます。ウジヤ王は非常にすぐれた王でした。神を恐れて正しい歩みをしていました。けれども、彼が栄えたときに、彼は高慢になり、神に打たれ、病を負っていたのです。ウジヤの死のニュースは南王国全体に不安と恐れをもたらす暗いニュースでした。イザヤもそう感じたことでしょう。けれども、おそらく神殿にいたときに、イザヤはひとつの幻を見ます。主の栄光の幻です。主の栄光の前に立った時、イザヤは、他の誰かではない、自分自身の罪と汚れを知らされて「わたしは滅びる」と叫びます。しかし、そのようなイザヤに主はゆるしときよめを告げられたのでした。
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イザヤ 6章8〜13節 2017年12月22日 |
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。(8) イザヤが知ったのは、預言者として仕えていたイザヤ自身のうちにある汚れでした。「わたしは汚れたくちびるの者」・・・預言者のくちびるが汚れていたら、どうして神の言葉を語ることができるでしょうか。しかし、そのような絶望の中で、主の救いを告げられたイザヤに対して、主は再び語られます。「わたしはだれをつかわそうか」。イザヤは「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」とお答えしたのでした。
しかし、そのイザヤに託されたのは「心をかたくなにするメッセージ」でした。イザヤが語れば語るほど、人々の心は鈍くなり、その心の耳も目も閉ざされていきました。神の言葉を語るときに、人々がそのメッセージを受け入れ、主に立ち帰るというなら語りがいがあるというものです。けれども、イザヤの託されたメッセージは多くの場合受け入れられませんでした。裁きが迫っていました。しかし同時に裁きの向こうに主は回復をも備えておられました。
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