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エレミヤ 50章1〜20節 2018年4月26日 |
主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである。(20) この五十〜五一章はバビロンに対する主の言葉です。バビロンは非常に豊かであり、また大きな力を持っていました。そして実際に、エレミヤが活躍している時代の中で、南ユダ王国もバビロンに征服され、エルサレムの神殿は破壊され、城壁も崩されてしまいました。そして人々はバビロンに捕囚として連れていかれたのでした。しかし、エレミヤは、イスラエルとユダの民が嘆きながら帰ってきて、その神、主を求め、主に仕える、と預言しました。
バビロンが滅びるということはとても考えられない時代です。確かにバビロンは栄え、大きな権力を誇りました。しかし、バビロンもまた神の裁きの下に置かれ、滅びます。それに対して、神に裁かれ国を失ったイスラエルは全きゆるしを与えられようとしていました。赦されるはずのないイスラエルの民が「罪を探してもない」というほどに大きなゆるしを与えられたのです。
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エレミヤ 50章21〜46節 2018年4月27日 |
彼らをあがなう者は強く、その名は万軍の主といわれる。彼は必ず彼らの訴えをただし、この地に安きを与える(34) イスラエルの民はバビロンに捕囚の民として引いて行かれました。一度そのような立場に置かれてしまったら、そこからもう一度自由になるということはとても困難なことに思われたことでしょう。しかし、主はイスラエルの民のために大きな代価を払って、その民をあがない、買い戻そうとしておられました。
そもそもイスラエルの民は彼らを愛し、守り、導いてくださった主を捨てて、罪を犯したために国を失い、捕囚の民となったのです。そして相手はバビロンです。再び自由の身とされ、エルサレムに帰るということは限りなく不可能に思えます。しかし、万軍の主なるお方が大きな犠牲を払って、彼らをあがない、自由を与え、平安を与えてくださるというのです。イスラエルがあがなわれたように、主は私たちを罪の中から買い戻してくださいました。主イエスの命というとんでもない代価が支払われたのです。
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