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エレミヤ 17章1〜18節 2018年3月17日 |
おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。(7) 私たちは何に頼って生きるのでしょうか。イスラエルの民は危機の時にも、偶像に頼ったり、自分たちの財力に頼ったり、武器や城壁に頼ったり、同盟国の援軍に頼ったりしました。本来はイスラエルの民は主に頼るべきでした。そして主もまたそれを期待しておられました。しかし、彼らは主にすがることをしませんでした。
主は、主にたより、主を頼みとする人こそ祝福されている、と語られます。主に頼って生きる人は、水のほとりに植えられた木のようです。猛暑の中に置かれることもあるでしょうし、ひでりの年もあるでしょう。しかし、その葉は常に青々とし、絶えず実を結んでいきます。それは川に根を伸ばしているからです。そしてこの川は決して枯れることはありません。主に頼って生きる人もこれと同じです。どんな試練や困難の中を通っても豊かな実を結び続けることができるのです。私たちはいつもいのちの水の源である主にすがって歩みたいと思います。
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エレミヤ 17章19〜27節 2018年3月18日 |
わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい。(22) エレミヤの時代、人々は、十戒の中に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあるのを知りながら、安息日に商売をするために多くの荷物を神殿に持ち込んでいました。商売をする人にとっては神殿に一番多くの人が集まる安息日はまさに売り上げの一番上がるときだったかもしれません。しかし主がエレミヤを通して語られたのは、安息日に荷物を運び入れたり、運び出したりしてはいけないということでした。それは聖なる日でした。「聖なる」とは神のために取り分けられているということです。その日は神のための特別な日で、神のものです。神を礼拝し、神をあがめる日なのです。けれども、人々はエレミヤの必死の呼びかけにも耳を傾けることなく、強情に神の戒めを拒んだのでした。
教会は後に、主イエスのよみがえられた日曜日の朝に共に集って礼拝を守るようになりました。神にあがなわれ、神の民とされたものとして、主の日を心から喜び、主に仕えるお互いでありたいと思います。
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