バックナンバー
|
エレミヤ 15章1〜21節 2018年3月15日 |
わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。(16) エレミヤの必死のとりなしにも関わらず、神は厳しい態度を緩められることはありませんでした。疫病や敵の剣、ききん、そしてバビロンへの捕囚が迫ってきていました。エレミヤの時代の他の預言者たちは危機が迫っている中でも、非常に安易な救いと平安のメッセージを語り続けていました。そして、人々が聞きたいと願ったのはそのような偽預言者たちの言葉でした。エレミヤはある意味、孤独だったでしょう。エレミヤほどエルサレムを愛し、ユダの国のために涙を注いで祈った預言者はいません。しかし、人々は南ユダ王国に対する神の裁きを語るエレミヤを呪ったのでした。
エレミヤは本当に、主の言葉を聞き、それを食べるように吸収しました。そして主の言葉はエレミヤの喜びでした。しかし、彼が主の言葉を語れば語るほど、彼は孤独になり、人々から煙たがられてく・・・そんな中でエレミヤは主につぶやきます。しかし、主はエレミヤが立つべきところにきちんと立つようにと迫り、もう一度、召命の御言を聞かせられたのでした。
|
|
|