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エゼキエル 33章1〜33節    2018年6月10日

わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。(11)

 国に危機が迫ったとき、敵が襲いかかろうとしてやって来たとき、人々に警戒を呼びかけるラッパ吹きの責任はとても大きいものです。
 同じように、主は「イスラエルの家を見守る者」を必要としておられました。見守る者に求められたのは、神の語られる言葉を聞き、人々にその言葉を語るということです。たとえば悪人がいて、その人に神の裁きが迫っているときに、そのことを知らせ、悪しき道を離れるように迫るということです。神は悪を裁かれます。しかし、神は決して悪人が死ぬことを喜んでおられるのではありません。神が願っておられるのは、罪人がその罪を離れ、翻って生きるということなのです。
 エゼキエルが捕囚の民としてバビロンに連れてこられて第十二年の十月五日、ついに恐れていたニュースが捕囚の民たちの所に届きます。それはエルサレム陥落の知らせでした。しかし、現実的にはそのような裁きの中でもなお人々は悔い改めようとはしませんでした。



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