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エゼキエル 20章1〜32節    2018年5月27日

わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。(20)

 エゼキエルたちがバビロンに連れてこられてから七年目の五月十日、長老たちの中のある人々がエゼキエルのもとにきて、主の言葉を求めます。ただ、主は求めに答えようとはされませんでした。それはエジプトから導き出されたイスラエルの民が、神の言に従おうとしなかったからです。彼らは安息日を守ることをせず、神が嫌われた偶像を拝みました。安息日を守るというのは、まさにイスラエルの民が神の民であることのしるしでした。安息日を守るたびに、彼らは自分たちが神に贖い出されたことを思い起こし、また自分たちが周辺の国々の民の中から選び出された特別な民であることを実感したのです。安息日は主が与えられた恵みの日でした。エジプトで奴隷であった間は安息日ということはあり得なかったことでしょう。けれども救い出された主の民として、彼らはその日に休むことを許され、その日に主を祝ったのです。イスラエルの民はその後も安息日を守らず、偶像から離れることをしないで、結局、自らの身に裁きを招いてしまったのです。

エゼキエル 20章32〜49節    2018年5月28日

わたしが・・・あなたがたを散らした国々から集める時、こうばしいかおりとして、あなたがたを喜んで受けいれる。そしてわたしは異邦人の前で、あなたがたの中に、わたしの聖なることをあらわす。(41)

 主は、あのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を救い出されたように、イスラエルの民を捕囚の地から導き出し、その先祖たちに与えると約束された地に帰らせようとしておられました。
 その時に、主の民に求められていたのは、もう二度と偶像礼拝に陥ることをしないということです。偶像礼拝とは、目に見えるものに頼るということであり、自分が神によって造られるのではなく自分のイメージする神を造ることであり、神を自分の都合や支配の下に置くということでした。それは行き着くところ、まことの神を否定して、自分が神になるということでもあったのです。
 けれども、神によってあがなわれた聖なる民として生きるということは、それとは全く異なることでした。私たちは主に対するこうばしいかおりです。主の御前にも、またこの世の多くの人々の前にあっても、主が聖なるお方であることを表していく者たちでありたいと思います。



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