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創世記 49章 1〜7節 2015年5月17日 |
シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、ほしいままに雄牛の足の筋を切った。(5〜6) ヤコブは子どもたちを枕辺に呼んで、年の順に彼らを祝福します。最初に名前を呼ばれたのは長男ルベンです。彼は確かに、「わが勢い、わが力のはじめ、威光のすぐれた者、権力のすぐれた者」でした。しかし、彼は父の妻ラケルのつかえめであり、ヤコブのそばめであって、自分の弟ダンとナフタリの母親であったビルハと関係をもったのでした。性の誘惑と戦うのは決してやさしいことではありません。しかし、彼は一度の過ちのゆえに、自分の長子の特権を失ってしまいます。自分に与えられている使命を彼は見失ってしまったのです。
次に名前が上げられているのはシメオンとレビです。彼らは自分たちの妹デナが汚されてしまったときに、怒りに震えて策略をめぐらし、シケムの人々を虐殺します。私たちは彼らの「怒り」「憤り」を理解することはできます。しかし、怒りにまかせて行動することは時に自分の身に破滅を招きます。
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創世記 49章 8〜12節 2015年5月18日 |
つえはユダを離れず、
立法者のつえはその足の間を離れることなく、
シロの来る時までに及ぶであろう。
もろもろの民は彼に従う。(10) ユダはヨセフをねたみ、ヨセフをエジプトに向かう隊商に売ってしまった張本人です。そして自分の罪を隠すために、彼は大きな嘘をつき、父親をだまします。ただ、後にユダは父親の心の痛みを理解できる者に変えられ、ベニヤミンのために自分の身を献げて、彼を救おうとしたのでした。ヤコブはユダのことを「ししの子」と呼びます。それは権力と力を象徴する表現でもあります。
「つえはユダを離れず」というのは、ユダの子孫から、イスラエルを治める者が出ることを語った預言の言葉でもありました。実際、ダビデ以降、ユダ族のダビデの子孫が代々王位を継ぐことになります。そして、そのダビデの子孫として主イエスはお生まれになりました。
黙示録五5おいては主イエスのことを「ユダ族のしし」という呼び方で呼んでいます。このお方こそが王の王、主の主として、私たちを救い、治めてくださるお方なのです。
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創世記 49章 13〜27節 2015年5月19日 |
ヨセフは実を結ぶ若木、
泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は、かきねを越えるであろう。(22) ヤコブはヨセフについても時間をかけて祝福の言葉を語ります。「ヨセフは実を結ぶ若木」・・・ヨセフは生き生きとして命にあふれ、実を結んでいくのです。それはまさに、彼が泉のほとりに植えられていたからです。
ヨセフは特に若い日々、多くの苦難を経験しました。また、王のサポートがあったとは言え、一介のヘブル人の奴隷であったヨセフが政治的実権を握っていく中では多くの風当たりがあり、ねたみや策略の中を通ることも多かっただろうと思います。上に立つということは孤独で厳しいことでもあります。しかし、彼は命の泉をもっていました。それが神の臨在、神が共にいて下さるということだったのです。ヤコブはその方を「あなたを助ける父の神」「あなたを恵まれる全能者」と呼びます。そしてヨセフはかきねを越えて、祝福をヤコブとその家族だけでなく、エジプトにも、またカナンの地にももたらす者となったのです。
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創世記 49章 28〜33節 2015年5月20日 |
すべてこれらはイスラエルの十二の部族である。そしてこれは彼らの父が彼らに語り、彼らを祝福したもので、彼は祝福すべきところに従って、彼らおのおのを祝福した。(28) ヤコブは、アブラハム、イサクと手渡されてきた神の祝福を子どもたちに手渡します。そしてこの祝福の系図は、主イエスを通して、私たちにも手渡されています。私たちは自分が祝福され、恵まれ、豊かにされて・・・というだけでは満足しません。私たちは与えられた祝福を次の人たちに手渡していくのです。
そしてヤコブはヨセフに語ったように、兄弟がそろったところでも、自分を「ヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に」葬るようにと語ります。そこにはアブラハムと妻サラも、イサクと妻リベカも、そしてヤコブの妻レアも葬られていたのです。ある意味、自分が与えられた人生、その果たすべき責任を果たして、父祖たちの中に加えられようとしていることを、ヤコブは受けとめようとしていました。そして、このことはヤコブの家系につながる者たちに、自分の住むべき地はエジプトではなく、神がアブラハムに約束されたその地なのだということを思い起こさせることになったことでしょう。こうして波瀾万丈のヤコブの生涯は幕を閉じていったのです。
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