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創世記 21章1〜7節 2015年3月2日 |
神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう。(6) アブラハムとサラのところに三人の人たちが訪ねて来て、来年の春にはサラに男の子が生まれている、と告げてから一年後の春、サラには本当に男の子が生まれていました。サラは九十歳、アブラハムは百歳の時です。一年前には「わたしは衰え、主人もまた老人なのに・・・」と不信仰のゆえに心の中で笑い、そのことを神に見抜かれていたサラでしたが、この時には心の底から笑います。イサクという名前自身が、「笑い」という意味のある言葉なのですが、サラの「神はわたしを笑わせてくださった」という言葉にサラの喜びがよく表れています。
サラだけではありません。誰にも信じられないことだったでしょう。聞いた誰もが、「そんな馬鹿な、信じられない」と一度は不思議そうな顔で言い、その後、本当の話だと知って、サラとアブラハムに神がしてくださったその御業の大きさを知ってまた笑うのです。神は、また私たちのためにも驚く御業をして、私たちを笑わせてくださいます。
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創世記 21章8〜14節 2015年3月3日 |
サラは・・・アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。(10) ハガルがアブラハムに生んだイシマエルは、イサクが生まれた時に、十四歳でした。イサクが乳離れするのがたとえば五歳とすれば、その時には十九歳。いずれにしてもイシマエルは十代後半ということになります。イサクが乳離れする祝いの時に、イサクと遊ぶイシマエルを見て、サラはある種の不安を覚えます。イサクと「遊ぶ」というのは、イサクをからかい、ばかにしているのを見たのだという解釈をする人もいます。いずれにしても、サラは、イシマエルの中に、イサクではなく自分がアブラハムの長子として、相続にあずかるのだという野心(?)のようなものを見てとったのかも知れません。サラはイシマエルを追い出すように、アブラハムに迫ります。ただアブラハムにとってはイシマエルも大切な息子です。アブラハムは心配します。しかし、神が語られた言葉を聞いて、アブラハムはただちに行動を起こしたのでした。ただ情に流されていくのではなく、神の言葉を聞きつつ、信仰によって生きるアブラハムの姿を見ます。
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創世記 21章15〜21節 2015年3月4日 |
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。・・・わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。(17〜18) アブラハムにとってはイシマエルも大事な息子でしたから、イシマエルとハガルを家から出すという決断がやさしいものであったとは思いません。しかし、神からの声を聞き、また「はしための子もあなたの子ですから、これをも一つの国民とします」という神の約束に信頼して親子を送り出したのでしょう。
しかし、ハガルとイシマエルはすぐに命の危険にさらされることになります。荒野において水がなくなってしまったのです。ハガルは絶望し、死を覚悟します。イシマエルも声を上げて泣きます。しかし、神はハガルのことを見ておられましたし、イシマエルの泣く声を聞いておられました。神は、イシマエルを「大いなる国民とする」と約束されたのでした。そして神がハガルの目を開かれると、そこに水のある井戸があるのを見たのでした。神は確かに彼らと共にいて、荒野においても彼らを支えられたのです。
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創世記 21章22〜34節 2015年3月5日 |
そのころアビメレクとその軍勢の長ピコルはアブラハムに言った、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる・・・」。(22) アビメレクと軍勢の長ピコルがアブラハムのところにやってきます。アブラハムが豊かになり、また勢力をもっていくのにある意味の危機感を感じたのでしょう。彼らは「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」と言います。アブラハムの才能・知恵などにもすぐれた点はあったでしょうけれども、アビメレクたちは、アブラハムの祝福の背後に、生きて働いておられる神を見たのでした。
アビメレクとアブラハムはベエルシバで契約を結びます。アブラハムもアビメレクの国を侵略することなく、またアビメレクもアブラハムの財産を脅かすことをせず、またアブラハムの掘った井戸の水を奪わないという契約です。このことはアブラハムにとっても生活を安定させるために有益な契約だったはずです。そしてアブラハムはアビメレクと契約を結んだ後に、そのところで、永遠の神の名を呼びます。アブラハムの安全を保証するのはアビメレクではなく、神であることをこのような中でもアブラハムは知っていたのです。
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