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創世記 2章1〜3節 2015年1月15日 |
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。(3) 神は、創造を始めて六日間で光から人間まで、造ろうとしておられたすべてのものを創造されました。そして七日目に休まれたのでした。神が「休まれた」という言い方は私たちにはとても不思議に聞こえます。神は力に満ち、疲れることのないお方です。今でも神には休日はありません。この日は神はお休みだから祈りに答えられないとか、私たちを守ってくださらない、助けてくださらないということはないのです。
聖書は、神は七日目を祝福して、これを聖別されたと言います。「聖別する」とは、特別なものとしてこの日を取り分けられたということです。ですからこの日は、私たちにとっても、神のための特別な日なのです。
後に、この七日目のことを安息日として、仕事をするのではなく、共に主の前に出る日として守られるようになります。そして、主イエスの復活以降、教会は、七日目の安息ではなく、週の初めの日に復活された主イエスを記念して、日曜日の朝に集まって、礼拝を守るようになったのです。
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創世記 2章4〜14節 2015年1月16日 |
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(7) この二章には、人間の創造に関する一章とは違った角度からの物語が残されています。一章においては、「神のかたち」ということが大きなテーマとして取り上げられたのですが、この二章では、人間は土のちりで造られた、と書かれています。ここには人間のはかなさ、もろさが表されています。しかし、そのような弱く、もろい人間に、主なる神は命の息を吹き入れてくださいました。神の息を吹き入れられて、私たちは生きるものとなったのです。「息」という言葉はヘブル語では「霊」とも訳される言葉です。まさに人間は神の霊を吹き入れられて生きるものとなったのです。人間が霊的な側面をもった存在であり、主なる神との交わりに生きるものとされていることを私たちは覚えていたいと思います。
主は造られた人間をエデンの園に置かれました。それは美しい園で、おいしい実のなる木々が生い茂り、また豊かな川の流れによって潤っていました。私たちはやがてエデンの園にまさる天の御国に住むのです。
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創世記 2章15〜17節 2015年1月17日 |
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(16〜17) エデンの園に置かれた人間には神から託された仕事がありました。それはその園を耕し、それを守るということでした。労働というのは決して神からの罰ではありません。神が私たちを信頼して、賜物を与え、働きをゆだねてくださったのです。ですから本来、働くということは大きな喜びを伴うことなのです。
主はエデンの園にある木々の実をとって食べることを人間に許してくださいました。それは神に造られた人間の食糧となりました。しかし、同時に、主は善悪を知る木からは取って食べてはならないとおっしゃいました。やがて、神に造られた人間は罪を犯して、神が食べてはならないとおっしゃたその木の実を食べてしまいます。食べたらいけないようなものをなぜ神は造られたのだろうか、という議論があります。知ってください。神は自由意思を持った存在として人間を造り、私たちが与えられた自由意思をもって神を愛し、従うことを期待されたのです。
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創世記 2章18〜23節 2015年1月18日 |
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。(19) 最初、地のちりで人間が造られたとき、人はひとりでした。しかし、神は、「人がひとりでいるのはよくない」とおっしゃいます。人には「ふさわしい助け手」が必要でした。「助け手」とはお手伝いさんのことではありません。聖書では神のことを私たちの「助け」と呼ぶこともあるほどです。「助け手」とは、私たちと共に歩む同労者、支え手です。私たちにも助け手が必要ですし、私たちが助け手となるべき誰かがきっといるはずです。
神はいろいろな動物や鳥を人のところに連れて来られます。動物に名前をつけることは人の大きな仕事でした。しかし、それらは人のふさわしい助け手ではありませんでした。神は人のあばら骨からひとりの女を造り、人のところに連れてこられます。あばら骨から女が造られたということは、女と男の間にあるのが上下関係ではなく、愛し合うパートナーとして女が作られたことを示唆しています。彼は、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言って、女を喜んだのでした。
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創世記 2章24〜25節 2015年1月19日 |
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(24〜25) この最初に造られた男と女は最初の夫婦となっていきます。聖書は「それで」と結婚について語ります。結婚はまさに神が創造の初めから計画しておられたことだからです。結婚において大事なのは、親からの自立ということです。ここには精神的・経済的自立が含まれています。親に依存したかたちの結婚生活はいびつなものとなっていきます。
そして、夫と妻は結び合い一体となっていきます。それは単に性的なつながりということではなく、深いコミュニケーションとしての交わりを持つものとして夫婦が造られたことを意味しています。夫と妻とのつながりは後に、キリストと教会とのつながりにたとえられています。ふたりは最初、裸でした。裸でいることができたのです。夫婦の間に隠し事があってはいけません。弱さも欠けも、お互いに受け入れ合い、支え合って、共に主なる神に仕えていくのです。
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