バックナンバー
|
創世記 17章1〜8節 2015年2月20日 |
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ・・・」。(1) イシマエルが生まれたのはアブラムが八六歳の時でした。そしてこの十七章で主がアブラムに語られたのは彼が九九歳の時ですから、十三年間のブランクがあったことになります。アブラムが神に信頼せず、自分の知恵に従って問題を解決しようとしたことから、アブラムと神との関係が正常でない時代が続いたのかも知れません。しかし、神はご自身の方からそんなアブラムに近づかれ、もう一度、祝福の約束を確認なさいます。アブラムの中途半端な姿勢にも関わらず、神はその約束を変えてはおられなかったのです。
神はアブラムに「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」とおっしゃいます。神が全き者であられるのはその通りであり、何の違和感もないのですが、私たちに全き者であれと言われるのはとても困惑することです。アブラム自身も多くの欠けを抱えていました。しかし、全能の神である主は、彼に新しい名を与え、全き者として立たたせようとしておられたのです。
|
創世記 17章9〜14,22〜27節 2015年2月21日 |
あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。(11) 神はアブラムと契約を結び、彼に新しい「アブラハム」という名を与えられます。それは「多くの国民の父」という意味でした。そしてご自身がアブラハムにとっても、その子孫たちにとっても神であることを宣言されたのでした。そして神はアブラハムに契約のしるしを与えられます。それが割礼でした。アブラハムの家のすべての男性は、その子どもたちから使用人までみな割礼を受けなければならなかったのです。割礼は、男性器の包皮を切除するのですが、この時にアブラハムの家のすべての男性が割礼を受け、これ以降生まれる子どもたちは、生まれて八日目に割礼を受けることとなります。
これは神とアブラハム・その子孫との間の契約のしるしでした。この割礼の傷は、自分たちが神との特別な契約の下にあることを思い起こさせました。後にユダヤ人たちは、この「割礼」を誇るようになりますが、パウロは外面上の傷ではなく、「心の割礼」(ローマ二28〜29)こそが重要だと語っています。
|
創世記 17章15〜21節 2015年2月22日 |
わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう。(16) 神はサライにもサラという新しい名前をくださいました。新しい名前は新しい歩みをも意味しています。神はアブラハムとサラに新しい名を与えて、新しい歩みをここから進ませようとしておられたのです。神はサラについて、彼女は子を産み、多くの国民の母となると約束してくださいました。アブラハムは神の言葉にひれ伏しながら笑います。そして、イシマエルが生きながらえますようにと答えます。アブラハムも、自分と妻サライの間に子が生まれて、その子孫が神の祝福を担っていくとはとても信じられなかったのです。
けれども、神はアブラハムに、あなたの妻サラが男の子を産むと約束され、その子の名前をイサクと言われました。「笑い」という意味です。神はまだ生まれていないイサクとの間に永遠の契約を立てるとおっしゃるのでした。アブラハムは神が本気でそのことをしようとしておられることを知ったのでした。
|
|
|