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創世記 5章1〜5節 2015年1月28日 |
アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。(3) 神様が最初人間を創造されたとき、神は、神のかたちにかたどって、人を創造されました。それは、神と同じように、自由意思や道徳性を持ち、神とのコミュニケーション能力を備えたものとして造られたということでした。しかし、人が罪を犯し、神に背を向けて歩み始めたとき、人はアダムの中の罪性、または別の言葉で言うと原罪をも受け継いでいったのでした。アダムが「自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生んだ」、というのは、単にセツはお父さんのアダムにそっくりだったというだけでなく、神とは似ても似つかない、罪深さを負ったものとしてセツが生まれたということをも暗示しているのです。
主イエスが十字架の上で私たちのために罪のあがないを全うしてくださったとき、単に、罪の罰が免除されたというだけでなく、私たちは新しく生まれます。神の子として、もう一度、神のかたちを担うものへと造り変えてくださるのです。
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創世記 5章6〜24節 2015年1月29日 |
エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。(22) アダムとその子孫たちは最初、九百年以上の寿命を生きていました。しかし、どんなに彼らが長生きしても、その生涯は「そして彼は死んだ」という言葉で締めくくられています。「そして彼は死んだ」という言葉が繰り返されていくのです。「それを取って食べると、きっと死ぬ」と語られた言葉のように、罪を通して死が人間の世界に入り込んできました。そしてどんなに優秀な頭脳と強い肉体を持っていたとしても、人間の生涯は必ず死で終わります。
しかし、21節のエノクについては「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と言われています。エノクは、死を経ずして、神のもとに移されたのでした。彼の生涯については「メトセラを生んだ後、三百年、神と共に歩み・・・」と書かれています。何があったのかはわかりません。しかし、確かに男の子が生まれたことが、彼にとっての大きな転機になったのでしょう。彼は、神と共に歩む日々を三百年重ねていったのです。
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創世記 5章25〜32節 2015年1月30日 |
レメクは百八十二歳になって、男の子を生み、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と言って、その名をノアと名づけた。 (28〜29) エノクの子メトセラはレメクを生み、そしてレメクはノアを生みます。ノアという名前には「休む」「慰める」というような意味があると言います。レメクの生涯に何があったかは分かりません。しかし、彼が地を耕し、労働していく中で、地が主にのろわれたものであり、それゆえに、労働がとんでもない骨折りに感じられるような、苦難の経験をしたのでしょう。レメクが七七七歳で、自分の親のメトセラより早くその生涯を終えていることも、彼の生涯に大きな苦難があったしるしなのかもしれません。
けれども、そんな中で与えられたノアは、レメクにとって大きな慰めであり、喜びだったに違いありません。ノアは五百歳でセム、ハム、ヤペテを生みます。洪水はノアが六百歳の時、レメクが死んで五年後、メトセラが死んだ直後です。地上に悪が満ちていく中で、ノアは神の御前にも、またノアの父祖たちにとっても大きな慰めだったのです。
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