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出エジプト記 36章1〜7節 2015年8月26日 |
聖所のもろもろの工事をする賢い人々はみな、おのおのしていた工事をやめて、モーセに言った「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります」。(4〜5) 神によって特別に名指しで召され、幕屋の建設に携わったベザレルやアホリアブの他にも、賜物を与えられ、思いを与えられて奉仕に当たった人々がいました。また多くのささげものがささげられました。民は朝ごとにささげものを持ってきました。自分もまた、幕屋の建設に加わりたいという思いが一人一人の中に与えられていたのでしょう。それらは強いられて、強制的に没収されたのではなく、すべて自発のささげものでした。一人一人が喜びをもって、自ら進んでささげたものによって幕屋は立てられたのです。
人々の中にあるあふれる思いのゆえに、ささげものは豊かに満たされ、工事に当たっていた人々が「民があまりにも多く携えてくるので」と申し出なければならないほどでした。決して豊かな人は多くなかったと思います。しかし、彼らは主の御前に感謝と喜びを与えられ、ささげたいという思いに満たされていたのです。
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出エジプト記 36章8〜38節 2015年8月27日 |
すべて工作をする者のうちの心に知恵ある者は、十枚の幕で幕屋を造った。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で造り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出した。(8) ささげられた貴重な糸を用いて決められたサイズの布を織り、そこにケルビムを織り出すのはとても高度な技術を要することだったに違いありません。しかし、それは単に技術があるというだけでできる奉仕ではありませんでした。その働きに加わるためには心に知恵が必要だったのです。単に頭がいいとか、計算が速くて正確だとか、記憶力があり、多くの知識をもっているというだけではありません。また相手の考えを推し量り見抜くような能力をもっているということでもありません。
聖書が言う知恵とは、神のうちにあるもので、神を畏れる人に上から与えられるものです。人間の賢さは人を誇らせ、高慢にさせ、自分が神にとって代わるほどまでにおごらせていきます。しかし、神が私たちの心に与えて下さる知恵は聖なるもので、私たちを謙虚にさせ、神と人に愛をもって仕えることができるようにするのです。そして、その知恵を神は私たちにも与えたいと願っておられます。
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