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出エジプト記 10章1〜20節 2015年6月14日 |
いつまで、あなたは、わたしに屈伏することを拒むのですか。(3) モーセとアロンは再びパロ王の元に行って、第八の災いを告げます。それはいなごの災いでした。それぞれの災いの前に警告がされるのは、神の深いあわれみだったでしょう。もし、災いが下される前にパロ王が悔い改めて、イスラエルの民を解放していたら、災いが下ることがなかったからです。しかし、パロ王は心をかたくなにし続けます。家来たちが必死に懇願する中で、パロは成人男子だけが主を礼拝するために出て行くことを認めます。しかし、神が求めておられたのは、パロがすべてを手放すことでした。神の前に屈服することは決して敗北ではありません。それこそがいのちと平安への道です。しかし、パロはその道を拒んでしまうのでした。いなごの大軍が空を覆い、雹の害をまぬかれた緑の作物を全部食い尽くしてしまいます。
パロはあわててモーセとアロンを呼び、自分の罪を告白し、ゆるしを請い求めますが、いなごがいなくなってしまうと、また心をかたくなにしたのでした。
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出エジプト記 10章21〜29節 2015年6月15日 |
しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。(23) 第九の災いは「くらやみ」でした。モーセが手を上げると、濃いくらやみが空をおおい、三日の間、まったく見ることができないほどでした。エジプトでは太陽はラーと言われる主神であって、王はラーの息子とされていました。毎日沈み、また昇る太陽は、まさに不死をも意味していたと言います。しかし、その太陽がまったく光を失って三日間が過ぎていきました。
パロ王はモーセを再び召して、主に仕えてよい、と言います。そして、イスラエル人は子どもも含めてすべて出て行くことを許すのですが、家畜はだめだと言います。パロ王は神の命令にそのまま従うのでなく、神と交渉して、間を取ろうとしたのでした。しかし、神が求めておられたのは、全く無条件で、そのまま神に従うことでした。
聖書は「イスラエルの人々にはみな、その住むところに光があった」と語ります。暗い世の中にあっても、主は私たちを照らしてくださいます。
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