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出エジプト記 34章1〜9節 2015年8月20日 |
ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神・・・」(5〜6) 神はモーセに石の板二枚を用意して、もう一度シナイ山に登り、主の前に立つようにと命じられます。そしてモーセは次の日朝早く、シナイ山に上って、主の御前に立ったのでした。主は雲の中にあって下り、モーセの前にご自身を現されました。そして主はご自身の名を述べられます。「主、あわれみあり、恵みあり、怒ること遅く、いつくしみと、まこととの豊かなる神・・・」。主はまさにゆるしと恵みに満ちたお方です。あのすばらしい救いを経験したイスラエルの民が早くも主に背いて、大きな罪を犯したにもかかわらず、主はイスラエルを滅ぼすことをされなかったのです。もちろん、神は侮るべきお方ではありません。しかし、それ以上に、主は恵みにとあわれみに富んでおられるのです。
モーセは、イスラエルの罪をゆるして、イスラエルを神のものとし、主ご自身が、イスラエルと共にいて、これからの歩みも共に行ってくださるようにと求めたのでした。
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出エジプト記 34章10〜17節 2015年8月21日 |
見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしは地のいずこにも、いかなる民のうちにも、いまだ行われたことのない不思議を、あなたのすべての民の前に行うであろう。あなたが共に住む民はみな、主のわざを見るであろう。(10) 神に背いて大きな罪を犯したイスラエルの民でしたが、神はその大きなあわれみによって、再び契約を結ぶと語ってくださいました。神はイスラエルの民のために今まで誰も行ったことがないような不思議を行ってくださるというのです。主のみわざは私たちの想像や期待をはるかに超えたすばらしいことです。主はそのことを今も私たちの生涯の中で行ってくださいます。
神は、ご自身の民に対して、カナンの地に住む民と契約を結ばないようにと語られます。それはその地に住む人々と契約を結ぶようになると、その地の異教の神々を礼拝する人々と婚姻関係を結ぶようになり、結局は、神の民として召されたイスラエルの民も、偶像礼拝の中に引き込まれ、罪を犯すようになり、神の民としての使命を果たせなくなってしまうことを知っておられたからです。しかし、実際には、神の禁止にも関わらず、その後のイスラエルの民は偶像礼拝の中に引き込まれ、神のねたみを引き起こすことになってしまったのでした。
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出エジプト記 34章18〜28節 2015年8月22日 |
むなし手でわたしの前に出てはならない。(20) 神はイスラエルの民が年に三度、主なる神の前に出て、祭りを守るべきことを語られます。過越の祭と、七週の祭(初穂の祭)と、取り入れの祭(仮庵の祭)です。これはイスラエルの農業における収穫のために祝福を祈り、また感謝する祭としての意味と共に、神が自分たちをエジプトから導き出し、シナイ山で律法を与え、また荒野の旅を導かれたことを記念し、思い起こすという意味をも持っていました。祭の時に、集まっていたら周辺諸国に攻められてしまうのではないかという懸念に対しても、主は「主の前に出るときにはだれもあなたを侵すことはない」と約束されます。神に従う者を主は守ってくださるのです。
主に近づくときには、民はいつでも「最も良いもの」を携えていかなければなりませんでした。またすべてのういごは神のものとされていました。まず最初に神様にささげるということが徹底されたのです。私たちはむなし手で神に近づいてはならないのです。
子やぎを母の乳で煮てはならないというのは、主のあわれみ深さの表された規定です。イスラエルの民の姿勢を主は問われたのです。
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出エジプト記 34章29〜35節 2015年8月23日 |
モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。(29) モーセはまた山に登り、四十日四十夜を主の御前で過ごします。そして、モーセは石の板に、律法を刻んでいただいて、山から下りてきます。しかし、主と時間を過ごしたモーセの顔は光を放っていて、それはイスラエルの民が恐れて近づけないほどでした。モーセは主と語るときには顔おおいを取りのけたのですが、民の前にいるときには顔おおいをしていたといいます。
私たちも、主と交わりの時を持ち、主と共に時間を過ごしていると、顔が輝いていきます。それは目に見える「光」ではないかもしれませんが、御顔の輝きを映すようにして私たちも輝くのです。モーセは、民の反応を見るまではそれに気づかなかったといいます。私たちは、それを誇ることはできませんし、自分でも気づかないかもしれません。しかし、私たちの顔は輝きます。そして、やがて主が再臨されて、私たちが御前に立つ時には、私たちは主の御顔を仰ぎ、主と同じ姿に変えられて輝くのです。
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