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出エジプト記 15章1〜21節 2015年6月24日 |
主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、
彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、
彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。(2) 主の大いなるみわざを見たイスラエルの人々は心から主に向かって賛美の歌を歌います。イスラエルの人々は神ご自身を肉眼で見たのではありません。神は霊であって目で見ることはできないお方です。しかし、そこで起こったことを見ながら、目に見ることはできなくても、確かにそこにいてくださる主を知ったのです。そのお方は、誰も見たことも聞いたこともない、このようになるだろうかと予測もしない、思いつかないような、くすしきみわざを行ってくださるお方です。
そして、その力と栄光に満ちた勝利者なるお方が、自分の父祖を導かれた神であり、また「わたしの神」でもあるということを、イスラエルの民は喜びをもって告白したのです。
同じ主が私たちの神です。この主は、イスラエルをエジプトの奴隷生活から救い出してくださっただけでなく、神の御子をこの世に人として送り、そのあがないの死によって罪の奴隷であった私たちを救い出してくださったのです。
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出エジプト記 15章22〜27節 2015年6月25日 |
わたしは主であって、あなたをいやすものである。(26) イスラエルの民は神のすばらしい救いの御業を経験し、道を進んで荒野に入っていきます。三日、水のないところを歩いて、メラに着いた時、そこにある水を見て、イスラエルの民は歓喜したでしょう。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。あの紅海の奇跡を経験した民です。神がどんなに力あるお方かを知っているのですから、神に信頼して待つか、または主に期待と信頼を込めて祈ることができそうなものです。しかし、民はモーセにつぶやいたのでした。
しかし、モーセは主に叫びます。そして、主は一本の木を示されたのでした。そしてモーセがその木を水に投げ入れると、その水は甘くなり、飲むことができたのでした。この一本の木は、主イエスの十字架を暗示するものとも言われます。主イエスの十字架は、私たちに救いを与えます。
主は、ご自身を「あなたをいやすもの」とおっしゃいました。体の病からの癒すだけではありません。イスラエルの民は奴隷魂から解放されて、主に愛されているものとしての自分を取り戻す必要がありました。
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