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出エジプト記 20章1〜2節 2015年7月6日 |
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。(2) 再び山に登ったモーセに、神は十の戒めを与えられます。「十戒」と呼ばれる戒めで、律法全体の基本になるものです。今日の聖書の箇所はその前文にあたります。これから続く十の戒めの土台となる事がここには書かれています。
「わたし」と語る神がおられるということ、そのお方が「あなた」の神、イスラエルの神、主であられること、そして、このお方がエジプトから彼らを救い出してくださった主であることが記されています。エジプトは確かに表面的には栄えて、非常に力に満ちていたことでしょう。しかし、そこはあくまでもイスラエルの民にとっては奴隷の家でした。後々、イスラエルは様々な困難にぶち当たる度に、エジプトを懐かしみますが、しかし、それはあくまでも奴隷の家でした。そして、エジプトの奴隷となっていたイスラエルにはどう考えても救いなどあり得ようはずもないのに、神はまさにそのことをイスラエルのために成し遂げてくださったのです。この神の恵みと救いが十戒全体の前提・土台なのです。
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出エジプト記 20章3節 2015年7月7日 |
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(3) この十戒は最初の四つは、神とイスラエルの関係に関わること、後半の六つは人と人との間に関することです。そして、これらは皆、いわゆる「命令形」では書かれていません。直説法で書かれていて、こんな神様を知っているあなたがたは、当然、このようなことはしないのだ、という神によって贖われ、救い出され、神の民として選ばれた者たちの生きる指針、当然、こうなはずだという神の思いを表しています。これはまさにイスラエルの民に対する神の御旨であり、また国は違い、時代は違っても、神の民として召された者たち皆に求められていることなのです。
第一戒は、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という戒めです。聖書の神以外に神はありません。祈りの心の美しさを私たちは理解することができます。しかし、同時に、誰を信じ、誰に頼り、誰に祈るかということはもっと大事なこと、より決定的なことです。あなたの神はわたしだけだ、私だけが神なのだと、まず神は宣言されるのです。
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出エジプト記 20章4〜6節 2015年7月8日 |
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。(5〜6) 十戒の第二戒は「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」です。これは偶像を作って拝むことへの戒めです。私たちは目に見えるものがほしいのです。目に見えるものに頼りたいのです。しかし、聖書の神は霊であって目で見ることのできない方です。またもし目に見ることができたとしても、この聖なるお方を汚れた者たちが見ることは許されないでしょう。
私たちの目に見えるものはすべて神が創造されたものです。そして、目に見えるものを目に見えないものに代えて拝むとき、聖書の神は「ねたむ神」とおっしゃいます。それは、神は私たちのことを本気で熱心に愛しておられる方だということです。神よりも他のものに頼る者にはその「罪を子に報いて三、四代まで」とは罪の結果の恐ろしさを示しています。しかし、神の恵みは桁違いです。ひとりの人が神を愛し、神に従って生きる時には千代まで及ぶ祝福が注がれるのです。
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出エジプト記 20章8〜11節 2015年7月10日 |
安息日を覚えて、これを聖とせよ。(8) 十戒の第四戒は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」というものです。イスラエル人たちは一日は日没に始まり日没に終わると考えましたので、安息日とは金曜日の日没から、土曜日の日没までを指しています。教会ではこの安息を守るという戒めを、主の復活を祝う週の初めの日に置き換えて守るようになりました。
主は六日で世界を造られ、七日目は休まれました。それは神様がお疲れになって・・・ということではありません。ある意味、七日目に神は「安息」を創造されたのです。そして、主はこの日を祝福して「聖」とされました。「聖とする」とは特別なものとして取り分けるということです。神はこの日を私たちとの深い交わりのために取り分けられたのです。もちろん、どの日でも主は私たちの祈りを聞いてくださいます。けれども、主はこの日を私たちの礼拝をお受けになるために、私たちの賛美を聞き、私たちが共に集まってささげる祈りを聞き、私たちにご自身の恵みの御言を語るために永遠にその日に予定を組んでおられるのです。ですから私たちは喜びをもってこの日を主にささげるのです。
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出エジプト記 20章12節 2015年7月11日 |
あなたの父と母を敬え。 この第五戒からは人間関係に関する戒めです。この「父と母を敬う」という戒めが人間関係に関する戒めの最初に来るのには意味があります。それは親はある意味、子どもたちにとって、神様を指し示す存在であるからです。その意味で、父と母を敬うということは、神を畏れ従うことにつながるのです。「あなたの神、主が賜わる地で長く生きるため」というこの祝福の約束は、親を敬うということが私たちの信仰の歩みにおいてとても大切なことであることを示しています。
もちろん、肉の親の中には多くの問題を抱え、子どもを捨てたり、虐待するような親もいます。もちろん、この戒めは、何が何でも親の言いなりになるようにとか、子どもの方が忍耐すべきなのだということを教えているのではありません。
親である者たちは、自分に与えられている責任を自覚して、自分たち自身も自分の親を敬う姿を見せなければなりませんし、また神を畏れる者としての模範を示す必要があります。まさにこれは神の助けなしにはできないことです。
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出エジプト記 20章13節 2015年7月12日 |
あなたは殺してはならない。 第六戒です。神に造られた人間が罪を犯した時、アダムとエバの子どものカインは弟のアベルを殺してしまいました。殺人は、人間の歴史が始まった最初の頃からすでに起こっていたのです。
ひとりの人にはその人がこれまで歩んできた一日一日の積み重ねがあり、またその人と共に生きてきた多くの人とのつながりがあります。殺人はそのような多くの絆に深い傷を負わせ、その人の現在も未来も奪い、消し去ってしまいます。殺さないということは、目の前にいる人の人格を大切にすることでもあります。
もちろん、私たちは具体的に誰かに手を下すということはないかもしれません。しかし、主イエスは単に実際に殺すかどうかということだけではなく、私たちが心の中に誰かに対する憎しみを持ち、苦々しい思いや、怒りを持ち続けるとしたら、それは殺すということと何も変わらないとおっしゃいました。もちろん、行為に至るかどうかということなど関係ない、と言うつもりはありません。しかし、心の中をごらんになる神から見ると、同じ問題を抱えていることになるのです。
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出エジプト記 20章14節 2015年7月13日 |
あなたは姦淫してはならない。 「姦淫」とは夫または妻がいるにも関わらず、その婚姻の関係の外で、他の異性と関係を結ぶ行為です。それは単に浮気をしない、ということではありません。主イエスは、心の中に自分の配偶者以外の異性を思い続けることも姦淫とされました。
そして、これは言い換えれば、神が選び、導き、合わせてくださった夫婦の関係を大切にするということです。神は私たちにふさわしい助け手を備え、合わせてくださいました。ですから私たちは神を愛し、そして自分に与えられた妻を、夫を愛します。それは単に言葉だけのことではありません。心も、思いも、体も、すべてを尽くして愛するのです。決してその夫婦の絆の中に第三者を割り込ませてはいけません。
まだ結婚していない方々も知ってください。主はあなたのためにすばらしい伴侶を備えていてくださっています。その相手に出会うまで自分を清く守ってください。
この結婚は、新約聖書では、キリストと教会との愛の関係を表しているとされています。私たちはキリストとの愛の交わりの中に招き入れられているのです。
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出エジプト記 20章15節 2015年7月14日 |
あなたは盗んではならない。 第八戒は「盗んではならない」というものです。神は一人一人に祝福を与え、必要を満たしてくださいます。私たちは必要があったら、神に祈り、求めることです。確かに私たちの生きる世界は平等ではありません。同じように汗を流して働いても、豊かな人もいれば、多くの苦労を負いながら貧しい人もいます。多くを与えられている人にはその委ねられている富を自分のためではなく、主のため、そして隣人のために用いることが求められています。そして、たとい、どんなに貧しく、また不平等感を感じたとしても、人のものを盗むことによって自分の必要を満たしてはいけません。主は私たちが富んでいても貧しくても、主の御前に正直に、真実に生きることを願っておられます。
確かに貧しく、ものが少なく、苦しい歩みを強いられることもあるかもしれません。しかし、主は私たちがそのような中にあっても感謝と喜びにあふれ、人々を豊かにしながら生きることができるようにしてくださるのです。
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出エジプト記 20章16節 2015年7月15日 |
あなたは隣人について、偽証してはならない。 この戒めは直接的には、法廷において自分の知っていることについて嘘の証言をすることによって、その人をおとしめることを禁じる律法です。イスラエルにおいてはひとりの証言によって事の真偽が決されることはなく、二人以上による証言が必要とされていましたが、それでも、時に嘘の証言をするようなよこしまな者たちが現れて、裁きを曲げるということが起こりました。また時の権力者たちが偽証を立てる者たちを雇って、自分の憎む者たちを抹殺するということもあったのです。ですから、ここでは正しい裁きが行われ、正義が全うされることが求められているのです。
もちろん、それは裁判の時には偽証はしないけれども、普段の生活の中で嘘をつくことは許されるということではありません。普段から嘘やでたらめを語り続けていたら、どうしていざという時に真実を語ることができるでしょうか。私たちは、いつも私たちと共にいてすべてのことをご存じの主の御前にいる者として、いつも真実を語る者でありたいと思います。
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出エジプト記 20章17節 2015年7月16日 |
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。 むさぼるとは、他の人のものを欲しがることです。今までの戒めがいわゆる行為に関する戒めだったのに対して、この最後の戒めは、私たちの内心を問うものです。新約聖書の中でパウロは、自分は主イエスを知る前にも律法の義については落ち度のない者であったと語りながら、同時に、この「むさぼるな」という戒めが来たときに、罪は私たちの心の中にむさぼりを起こさせたと言います(ローマ七7以下)。ある意味、これまでの戒めも、形だけそれらを守っていればよいということではなく、私たちの心の中の姿勢までが問われています。そのことがより明らかな形でこの「むさぼり」の罪を禁じる第十戒で明らかになっていくのです。
この地上での歩みは決してすべての人が平等というわけではありません。ある人は大きな家に住み、ある人は小さな家に住みます。給料も家族構成も健康状態も社会的立場も違います。しかし、主は一人一人に良いものを与えてくださいます。むさぼらない生き方は、まさに神に信頼し、神の与えて下さるものを感謝し、楽しむ中で、生まれて来るのです。
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出エジプト記 20章18〜26節 2015年7月17日 |
民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。(18) モーセが主の山に登り、神と語りながら、また神がモーセに十戒を与えておられる間、民は山の下で待っていました。民は、かみなり、いなずま、ラッパの音を聞き、山が濃い雲でおおわれているのを見ました。民は、神の前に立ちながら、恐ろしさに震えました。そして、モーセに対して、神が直接自分たちに語られたなら、自分たちは死んでしまう、と思ったのです。
モーセは民に対して「恐れてはならない」と語りながら、同時に、神が恐れをあなたがたの目の前に置かれた、と言います。神を怖がる必要はありません。私たちは神のいつくしみの中に置かれ、神は私たちを祝福しようとしておられるからです。しかし、同時に、神に対する畏れを失ってはいけません。自分を神の位置に置いて、自分勝手に、自分の思いのままに罪を犯し続けることがあってはならないのです。私たちは神を神として恐れ、あがめつつ、神を愛して仕えていきたいと思います。
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