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出エジプト記 7章1〜13節 2015年6月7日 |
「・・・わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。(5) モーセとアロンがパロ王の前に立った時、モーセは八十歳、アロンは八三歳でした。二人の高齢者たちが、神の召しをいただいて、王の前に立っています。本当でしたら余生を静かに・・・と言いたいところかもしれません。しかし、まさに彼らにとってのそれまでの八十年は、これからの働きのための準備期間だったのです。
神はモーセに、パロは、神の言葉を聞いても、心をかたくなにして、彼らの言葉を聞かないだろうと語られます。「わたしはパロの心のかたくなにする」・・・神はそのようにさえ、おっしゃいます。もちろん、それはパロに責任がないとか、神のせいでパロがかたくなになったとかいうことではありません。パロが心をかたくなにしたのは彼の責任です。しかし、自分が神に逆らって、エジプトの王としての威厳をもって神に挑戦しようとしたパロも、あくまでも、神の手の中で、ころがされているに過ぎず、そのことを通して、彼らもまた神が主であることを知り、そのことを世界にあらわすことになったのです。
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出エジプト記 7章14〜25節 2015年6月8日 |
主はこう仰せられます、「これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。見よ、わたしが手にあるつえでナイル川の水を打つと、それは血に変るであろう。(17) 神は、心をかたくなにして、その語りかけを聞こうとしないエジプト王パロに十の災いを下されます。今日のところにあることが第一の災いです。それはナイル川の水が血に変わるということでした。言うまでもなく、水は私たちが生きるために欠かすことのできないものです。そして、エジプトにとってナイル川の存在は、まさに尽きることのない命と繁栄の源でした。ナイル川は決して涸れることはありませんでした。それは人々に水を供給し、飲み水や農作物の灌漑用水として用いられるだけでなく、毎年繰り返される洪水は上流から養分を豊かに含む肥沃な土を下流に持ち運びました。
ナイル川はまさにエジプト自体を象徴する川でもあり、また川自体が神格化され、そこでは様々な宗教祭儀が行われていたと言います。しかし、そのナイル川の水が血に変わってしまったのです。川に住む魚は死に絶え、川は臭くなって飲むことができませんでした。主はナイル川をも支配されるお方でした。
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