バックナンバー
|
出エジプト記 6章1〜9節 2015年6月5日 |
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。(7) 神は、アブラハム、イサク、ヤコブに対しては「全能の神」としてご自身を示されました。それは神にはどんなことでもおできになるということと共に、神が私たちのためにすべてのものを与え、養うことがおできになるお方だということでした。しかし、ここで、神はご自身を「主」としてあらわされます。この「主」という言葉にはまさにイスラエルを救うお方という意味で用いられています。そしてこの出エジプトの出来事以降、イスラエルの民は「主」という言葉で、自分たちをエジプトから救い出してくださった救い主なる神を思い起こすことになるのです。
確かに、エジプト王パロは心をかたくなにし、またイスラエルの置かれている状況はますます厳しくなっているように見えたことでしょう。しかし、神はその力強い御手をもってイスラエルを救い、エジプトから贖い出そうとしておられました。そのことを通して、イスラエルが神の民であること、また主がイスラエルの神であることが明らかにされようとしていたのです。
|
出エジプト記 6章10〜30節 2015年6月6日 |
主はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることは、みなエジプトの王パロに語りなさい」。(29) モーセは主が語られた言葉をイスラエルの民に伝えましたが、民は苦しみの中にあってモーセの言葉を聞こうとしません。しかし、神はモーセに再び、エジプトの王パロのところに行って、神の言葉を語るようにと迫られます。けれども、イスラエルの民でさえ、モーセの話を聞いてくれないというのに、どうしてエジプトの王パロが、「分かった、イスラエルの民に休暇をやり、去って神を礼拝することを許そう」と言ってくれるでしょうか。モーセは正直に言って、パロの前に立ちたくなかったのだろうと思います。しかし、神は、モーセをしいてパロの前に赴かせられます。そしてモーセも「わたしは主である」と語られる神に従って行くのでした。聞いても聞かなくても、語るようにと言われる言葉を語らなければならないことがあります。私たちは、神がしてくださる御業に信頼して、人々の前に立つようにと神に召されているのです。
|
|
|