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出エジプト記 4章1〜9節 2015年5月31日 |
これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである。(5)
モーセは神の言葉を聞きながら、それでも、自分が神のお声を聞いたということをどのようにしたら人々は信じてくれるだろうかと不安になります。確かに四十年前、エジプトの王子のようにして育てられたモーセでさえも、イスラエルの人々は信じてくれなかったのです。
神はモーセに三つのしるしを与えられます。モーセの手に持っている杖がへびになるという奇跡、モーセがふところに入れた手が重い皮膚病になるということ、またナイル川から組んだ水を地に注ぐと血に変わるというしるしです。そのことによって、神がモーセに語られたということを人々は信じるだろうというのです。
神は私たちに語られるお方です。そして、神のお声を聞いた者たちに、その者たちを通し、その者たちがごくごく身近に持っているものを通して、神は不思議を行われます。それは、モーセのすごさを示すということではありません。モーセに語られたお方がどんなに力のある方かを示そうとするものだったのです。
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出エジプト記 4章10〜23節 2015年6月1日 |
だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう。(11〜12) モーセはそれでも自信がありません。怖いのです。恐れにとらえられて動けないのです。彼はまた自分は口べただからと尻込みします。モーセはかつてエジプトで世界最高の学問を身につけた人物です。モーセが言葉の人でない、と言ってしまったら、誰が言葉の人でしょうか。しかし、おそらく、モーセの中に四十年前の傷がトラウマになっていたのでしょう。神はモーセに、あなたに口を与えたのは私ではないか、とおっしゃいます。言うべきことは神が教え、また神が語らせてくださるのです。
しかし、それでもモーセはなおも「誰か他の人を」と固辞します。主はモーセに対して怒りを発し、またモーセのスポークスマンとして、彼の兄アロンをお立てになったのでした。
モーセはついに覚悟を決めます。神も、この仕事が簡単なものではないことを知っておられます。しかし、神はモーセ以上の覚悟でイスラエルを救おうとしておられたのでした。
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出エジプト記 4章24〜26節 2015年6月2日 |
その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。(25〜26) 今日の箇所は、私たちにはとても奇異に感じられます。神ご自身がモーセを召し、いやがるモーセを無理やりに立たせるようにしてエジプトに送ろうとされたのに、ここではモーセを殺そうとされているのです。
なぜここで神はモーセを殺そうとされたのでしょうか。神はイスラエルの民にアブラハム以来、割礼を施すようにと命じておられましたが、モーセはまだ自分の子に割礼を施していなかったからです。モーセの妻チッポラはすぐに自分たちの子ゲルショムに割礼を施し、主もモーセをゆるされたのでした。
これから、エジプトに行こうとしていたモーセにとって、これは非常に厳粛なものであったことでしょう。主が自分を用いて下さるということは、自分のなすべきことを放っておいてよいということではありません。このことを通して、モーセは自分が聖なるお方の前に置かれていること、この絶対的な権威をもっておられるお方に従順に従うべきことを肝に銘じたに違いありません。
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出エジプト記 4章27〜31節 2015年6月3日 |
民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した。(31) 神はモーセに語りかけると共に、アロンにも語りかけて、神の山ホレブへと導かれます。アロンはモーセの片腕のようにして、パロの前に共に立ち、モーセが聞いた神の言葉を語ることになります。そして後に、イスラエルの民がエジプトを脱出してからは、民を神の御前に近づかせる祭司としての務めを担っていったのでした。
モーセはアロンに神の言葉を伝え、二人はエジプトに戻って、人々の前に立ちます。アロンがモーセと共に行ったことは、モーセにとって大きな助けとなったことででしょう。イスラエルの民にとってモーセは、あくまでもよそ者だったからです。
モーセはイスラエルの民の前で神が与えられたしるしを行います。そしてイスラエルの民はモーセの語る言葉を信じたのでした。それはイスラエルの民にとって非常に大きな喜びであったに違いありません。主が自分たちを顧み、自分たちの苦しみを見ていてくださったことを知ったからです。そして聞いて信じた人々は、神を礼拝します。まだ救いの出来事自身は起こっていません。しかし、彼らは確かな神の御言をいただいて感謝したのです。
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