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申命記 21章1〜9節 2016年2月22日 |
その時レビの子孫である祭司たちは、そこに進み出なければならない。彼らはあなたの神、主が自分に仕えさせ、また主の名によって祝福させるために選ばれた者で・・・(5) 約束の地に入ってその地に住むようになった時、誰かが殺されて地に倒れていたときにどうするかが記されます。もちろん、誰が犯人かが分かった場合にはその人が裁かれます。しかし、誰に殺されたのか分からないときには、その死体のあった場所から一番近い町の長老たちが呼び出され、その殺人犯を自分たちは知らないということを証言しなければなりませんでした。そして、自分たちがしたのではないからそれでよいということではなく、彼らは自分たちの町に近い場所で起こったその殺人に関して、主のゆるしとあがないを求めて犠牲をささげなければなりませんでした。
その時に、その問題の解決のために、主の前に立ってあがないのわざをなし、祈りをささげるために祭司たちが呼び出されました。そして、彼らはその状況を観察して、判断を伝え、また人々のために祈り、とりなしをしたのでした。私たちもまた「祝福させるために」召されていることを覚えていたいと思います。
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申命記 21章10〜23節 2016年2月23日 |
もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。・・・木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。(22〜23) 捕虜の中から妻をめとろうとする場合、また二人の妻をめとる場合に関する規定があります。ここでも主は弱い立場にある人が泣き寝入りをしなければならないような状況にならないように配慮しておられます。
また子どもがわがままで手に負えず、父の言葉にも母の言葉にも聞かない場合には、その子どもには死が宣告されました。もちろん、親には子どもを愛し、養育する責任があります。しかし同時に、聖書は子どもに対しても、わがままで親の教えに従わないことがあってはならないことを教えます。親は神の愛と神の義を子どもたちに伝え、子どもたちは親を通して神のいつくしみと正しさを知るのです。
「木にかけられた者はのろわれた者」とあるように、主イエスは十字架にかかって私たちの罪を負い、呪われたものとなってくださいました。罪の恐ろしさを思うと共に、神が私たちのためにしてくださった恵みの御業の大きさを覚えたいと思います。
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