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申命記 11章1〜12節 2016年2月3日 |
しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。(11〜12) モーセが申命記の説教をしたとき、四十歳以下の人々は荒野で生まれた世代と言うことになります。そして、カデシで神の命令に従わなかったとき、二十歳以上だった民は荒野での四十年の間に死んでいますから、私たちが五歳以上の記憶を持つとすれば、出エジプトの記憶を持っていたのは、四五歳から六十歳の人々に限られることになります。しかしいずれにしても、まだ出エジプトのことを物語ることのできる証人たちが多くおり、またそこに立っていた人々は皆、荒野での主の守りや、背いた民が裁かれたことを見ていた、実際に経験した、人々でした。彼らはこれから入って行く地にあっても、主を愛し、その戒めを守り、主の御真実を自分たちに続く世代に手渡して行く責任がありました。
確かにエジプトも豊かな地でした。しかし、彼らのために主が備えてくださっていた地は、さらにまさる地、ナイル川ではなく天からの雨で潤い、主がいつもかえりみてくださる地だったのです。
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申命記 11章13〜25節 2016年2月4日 |
それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、(18〜19) 私たちは忘れやすいのです。ですからいつも神の言葉を心と魂におさめ、刻んでおく必要があります。何度も主の言葉を思い起こすのです。心におさめるために具体的には、手につけたり、目の間に記したり、家の入り口の柱や門に律法を書き付けたりして、毎日目にするところに御言を書き記しておくようにと、主はモーセを通して語られました。実際、伝統的なユダヤ教徒はおでこに律法の入った箱を結びつけたり、家の入り口に、小さな律法の入った箱を設置したりします
それだけではありません。親は子どもたちにいつも神の言葉を教える責任がありました。家にいるときも、道を行くときも、起きるときも寝るときも、子どもたちに神の言葉を語るのです。それは子どもたちのためだけではありません。子どもたちに絶えず語り続けることによって、親や他の大人たちも、自分自身が御言を思い起こし、心に刻むことになるのです。
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申命記 11章26〜32節 2016年2月5日 |
見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。(26〜27) 二つの道があります。祝福の道と呪いの道です。祝福の道は、私たちを救ってくださった神、主の御言に従う道です。もう一つの道は主に従うことを拒み、偶像に従う道です。主は私たちに選択を迫られます。イスラエルの民はやがてヨルダン川を渡って約束の地に入る時に、ゲルジム山に祝福を、エバル山に呪いを置き、その両方の山の前に立って、神に従うことを選ぶという選択の儀式をしました。そして、その二つの山を見るたびに、イスラエルの民は自分たちがこの二つの道の前に立って、選択を迫られていることを自覚することができたのです。
私たちもまた主に与えられた人生の中で日々、刻々、選択を迫られています。主の言葉をしっかりと聞いて従う道は時に困難に見え、もう一つの道の方がとても魅力的に映るかもしれません。しかし、いつでも、主の御言に従う道こそが祝福の道です。
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