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申命記 22章1〜12節 2016年2月24日 |
あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない。(1) 神が与えて、入らせられる約束の地で生きるための指針が詳細に語られます。自分の知り合いの持ち物や動物を別の場所で見つけた場合、その場を通り過ぎてはなりませんでした。もし、知り合いの牛やろばが迷い出て、倒れているのに遭遇したら、助け起こし、その知り合いのところに連れて帰らなければなりませんでした。またたといそれが誰のものか分からなかったとしても、明らかに誰かの持ち物であることがはっきりしていたら、それを預かっておいて、持ち主が訪ねてきたときには、それを持ち主に返すことになっていました。
それはある意味、他人の持ち物や家畜を見つけた人には手間を強いることになります。しかし、親切に、その一歩の手間を負うことが神の民にふさわしいことだったのです。上着の四隅のふさも、自分たちが神の民であることを忘れないためのものでした。ここで語られていることがなぜ命じられているか、細かい説明はありません。しかし彼らはこれらのことを通して、自分たちが神の民であることを再認識していったのです。
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申命記 22章13〜30節 2016年2月25日 |
もし人が妻をめとり、妻のところにはいって後、その女をきらい、『わたしはこの女をめとって近づいた時、彼女に処女の証拠を見なかった』と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を負わせるならば・・・(13〜14) 神は結婚を祝福し、私たちにもそれを大切に受けとめるようにと求めておられます。ですから不倫や近親相姦は死罪でしたし、結婚前の女性をはずかしめた人は、その女性を自分の妻として、生涯、責任を負わなければなりませんでした。自分の妻が気に入らなくなったからと、あることないことを言って、その女性をおとしめることなどもっての他でした。
確かに、聖書の時代は、今よりもずっと女性の地位が低く、女性が一人で生きていくのは困難だったことでしょう。その意味で、神が、立場が弱く、不利益をこうむることの多い女性を守られた、ということも言えます。しかし、それ以上に、神は結婚を重んじ、また男女の性を大切にされたのです。
結婚前でもセックスし、嫌いになったら罵倒し合って別れるとか、「ひとまず」結婚して、だめなら別れる、というのは神がご計画になった男女の姿・夫婦のあり方ではありません。
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