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申命記 29章1〜9節 2016年3月9日 |
わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。(5) 荒野を四十年歩むことになったのはそもそも、イスラエルの民が神に背いたからです。その結果として、主が備えてくださった約束の地にすぐに入ることができなくなってしまったのです。しかし、荒野の四十年は単なる裁きの四十年間ではありませんでしたし、神に見捨てられた四十年間ではありませんでした。主は「わたしは・・・あなたがたを導いて荒野を通らせた」とおっしゃいます。神に背いたイスラエルの荒野の旅路の中にも主の守りと導きがあったとは何と感謝なことでしょうか。
荒野の四十年間、着物も足のくつも古びなかったと言います。荒野を流浪の民として旅している間も、主はすべての必要をご存じで、その必要を満たしてくださいました。人間の知恵や常識を越えた主の守りと支えが、いつもイスラエルの民と共にあったのです。イスラエルの民は、その四十年を通して、主こそが神であることを知ったのでした。
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申命記 29章10〜26節 2016年3月10日 |
これは主がさきにあなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである。(13) 「あなたがたは皆、きょう、あなたがたの神、主の前に立っている」とモーセはイスラエルの民に呼びかけます。それは民のリーダーや有力者たちだけではありません。富める者たちも貧しい者たちも、男も女も、老いも若きも、他国人も、主人もしもべも、皆同じように主の御前に立っているのです。そして、イスラエルの民は、神との契約の中に入れられようとしていました。イスラエルの民は主の民であり、また主なる神は彼らの神となってくださいました。
確かにエジプトには多くの偶像の神々があり、またイスラエルが通ってきた国々においても、またこれから入っていこうとしているカナンの地においても多くの偶像がありました。しかし、それらの偶像を拝む国々がどんなに栄え、また豊かであり、強大な権力を誇っていたとしても、イスラエルの民は、そして、私たちは主を愛し、その御言のうちを歩んで行くように招かれているのです。
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