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申命記 12章1〜14節 2016年2月6日 |
そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。 (8) 主が与えられる戒めは、イスラエルの民が、「世に生きながらえる間」守り行うべきものでした。それは、一度従えばそれでよいというものではなく、従い続けることが求められていたのです。イスラエルの民からエジプトから救い出され、またヨルダン川を渡って約束の地に入っていったように、私たちの生涯には大きな節目や転機になる経験があるでしょう。悔い改めて主を信じるというのも、そういう大きな転機の一つです。しかし、一度信じ従ったらそれでおしまいということではなく、この地上に生を与えられている間、従い続けて行くことが大切です。
そしてまた、この戒めは、主が与えられる地において、神の民としてどのように生きるべきかという指針でした。イスラエルの民は昔は自分たちなりに好きな生き方をしてきたでしょう。しかし、主にあがなわれ、約束の地に入って行こうとしているこれからは自分の思いのままに、好き勝手に生きるのではなく、主に問い、主が語られるままに従っていくのです。
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申命記 12章15〜32節 2016年2月7日 |
すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。(18) イスラエルの民には、主の御前に献げるべき決まったささげものがありました。しかし、同時に、誓願の供え物とか、主に対する感謝にあふれてささげる自発のささげものは、酬恩祭として、共にそれを主の御前で食し、共に喜びました。その時には、自分の家族だけではなく、自分の家にいるしもべたちや、町にいて、主の御前に仕えているレビ人たちも招いて、共に喜び楽しむことをしました。
主に仕えるということは、決してしかめっ面をして歯を食いしばりながら、宗教的な実践を積むということではなく、主の御前に、共に、喜び楽しむ、ということでもあるのです。
もちろん、そこにも一定の作法がありました。たとえば、イスラエルの民は血を飲んではいけないとされました。それは血は命だということ、この時代、血を飲むことが衛生的な問題を含んでいたことと共に、それが異教の宗教活動とつながるということもあったからです。
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