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申命記 5章1〜11節 2016年1月18日 |
あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。(8) モーセはここで出エジプト二十章で与えられた十誡をもう一度、イスラエルの民に対して語ります。この十誡は昔のイスラエル民族にだけ当てはまるのではなく、今の私たちにとっても主にあってさいわいな生涯を送るときの指針となるものです。
今日の聖書の箇所には前文と最初の三つの戒めが取り上げられています。前文においてはこの戒めの土台・前提となることが確認されます。それはあなたがたは、自分たちをエジプトから救い出してくださった主の御前にいる、ということです。私たちが何をするとか、どうあるとか、言う前に、このような主なる神がいてくださるということがすべての土台なのです。
第一戒と第二戒は、この主なる神以外に神はないし、他の神々を造ったり拝んだりしてはならない、ということです。まさに罪の根源は、神を神としないで、神でないものを神とするところにあります。第三戒では、主なる神を畏れ、仕えるべきことが語られます。神との正しい関係がすべての土台なのです。
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申命記 5章12〜15節 2016年1月19日 |
かつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。 (15) 第四戒は安息日に関する戒めです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とは安息日を特別な日として聖別するようにという戒めです。安息日は主が六日で世界を創造し、七日目に休まれたことを土台としています。主はその日を私たちの礼拝を受けるために取り分けてくださいました。ですから、私たちも安息日をとりわけ、その日を仕事をする日ではなく、主を礼拝するために用いる日として聖別するのです。確かに「安息日」という用語には「止める」という意味があります。その言葉通り、その日は「止める」日です。けれども同時に、その日を主のために聖別し、主を礼拝し、善を行うために用いることが大切です。
またその日は、主の救いを思い起こす日でした。そして、安息日を守るかどうかはイスラエルの民と他の民とを区別するしるしでもあったのです。今日、私たちは、主のよみがえりを記念する週の初めの日、日曜日を主の日として祝い、聖日として主にささげます。
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申命記 5章16〜21節 2016年1月20日 |
あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。 (16) 第五誡〜十誡までは人との関係に関する戒めです。十誡においては人との関係は神との関係を土台としていますし、また神との関係は必ず人との関係にも影響を及ぼしていくべきものなのです。これらの戒めは決して、イスラエルの民を縛るために与えられたのではありません。聖書の御言は私たちの行動を制限し、不自由にすると考えてはいけません。それは私たちにさいわいな生涯を送るために、主が教えられた定めなのです。神の恵みの外に生きることは決して自由ではありません。自分の思いのままに生きることが自由だと考えるとしたら、それは大間違いです。
これらの生き方は、その当時の周辺諸国の人々の生き方とは全く違っていました。周囲の国々では殺したり、姦淫したり、盗んだり、嘘をついたりが当たり前でした。その意味でも、イスラエルの民はこのような律法を与えられて、周辺諸国の民とは区別された歩みをしなければなりませんでした。
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申命記 5章22〜33節 2016年1月21日 |
ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。(29) イスラエルの民は主がホレブの山に下り、火の中・雲の中・濃い雲の中からモーセに大いなる声をもって語られるのを聞きました。暗黒の中にあっても、山は火で燃え、その中で響き渡る主の御声を聞いた時、民のかしらたちは震え上がり、モーセに対して、モーセが民を代表して神の語りかけを聞き、自分たちにそのこと伝えることにしてもらいたいと願い出ます。民は非常に恐れたからです。
神はその申し出を受けとめ、モーセが一人で神の前にとどまり、神のおきてを聞いてくることにしたのでした。神は、イスラエルの中にある畏れをよいことと受け止めつつ、「ただ願わしいことは・・・」とその思いを語られます。神は、民が主を畏れ、御言に従って、さいわいを得ることを願っておられました。主は私たちが祝福に満ちた歩みをすることができるようにと、御声をかけられます。主を恐れつつ、喜んで主に仕える者たちでありたいと思います。
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