バックナンバー
|
申命記 8章1〜10節 2016年1月28日 |
人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(3) イスラエルの民が荒野で歩んだ四十年はそもそも不要なものであったはずです。イスラエルの民が不従順であったために裁きとして加えられた四十年だったのです。しかし、その神の裁きであり、罪の結果加えられた四十年が、神のあわれみよって、イスラエルの民への訓練の時となり、恵みの時へと変えられていました。四十年を経て、ヨルダン川の東側に立って、振り返る時、イスラエルの民は豊かな神の恵みの足跡をたどることができました。主は四十年にわたって毎日マナを与えて彼らを養ってくださいました。四十年の旅路において、彼らの着物はすり切れず、足ははれませんでした。主は荒野にあっても彼らを導き、すばらしくよい地に導こうとしておられました。
主は単に、物質的な必要を備えて彼らを養い導かれたというだけでなく、まさに御言を与えて彼らを生かされたのでした。主は私たちをも同じように導いてくださいます。
|
申命記 8章11〜20節 2016年1月29日 |
あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。(11) 主はその力強い御手をもってイスラエルの民をエジプトから救い出されました。そこでは驚くべきことが起きました。あの強大な権力をもったエジプトの王パロがイスラエルの神に屈し、奴隷であったイスラエルの民を解放したのです。また紅海が二つに分かれ、乾いた道が現れて、イスラエルの民はそこを通りました。その後の四十年間は確かに荒野の生活でしたけれども、多くの危険のある荒野にあっても主は彼らを支え、またマナを与え、岩から出る水をもって彼らを潤されました。彼らが努力してその荒野の生活を乗り切ったということではありません。神が彼らをそのように守り、導かれたのです。
しかし、ここでモーセは、イスラエルの民に、やがて彼らが約束の地に入って、家を建て、落ち着いた生活を送るようになったら、彼らは自分たちの神、主を忘れるだろうと警告しています。私たちは、困難の時には主にすがるのですが、物事が落ち着くと、案外、神を忘れ、その恵みをも忘れてしまいやすいのです。
|
|
|