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申命記 6章1〜9節 2016年1月22日 |
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(4〜5) この六章4〜5節はまさに、律法の中心、旧約聖書のメッセージの核心です。イスラエルの民は今でも、この「イスラエルよ、聞け(シェマー イスラエル)」で始まる箇所を子どもの時から心に刻み、暗唱します。十二歳の成人式の時には、それが一つの条件になるほどです。
十誡においてもそうでしたが、律法の土台は、主がエジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放してくださったということにあります。まさに、自分たちを救ってくださった神はただこのお方だけで、そのお方を差し置いて、他の偶像を拝むようなことがあってはなりません。そして、律法のメッセージはまさに、この救い主である神を愛するということにあります。神がまず、私たちを愛してくださったゆえに、私たちも神をどこまでも愛して仕えていくのです。私たちを救い、今も大きな愛をもって愛し、支えてくださる神の言葉をしっかり心にとめ、心に刻んで生きるのです。
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申命記 6章10〜19節 2016年1月23日 |
あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。(16〜17) 「マッサでしたように」とは出エジプト十七章の出来事を指しています。主がイスラエルの民をエジプトから救い出し、荒野を導いていかれた時、神はイスラエルの民に天からのパンとしてマナを与え、彼らを養ってくださいました。しかし、レピデムという場所に来たときに、民の不満が爆発します。彼らはモーセを非難し、荒野で死なせるために導いてきたのかと悪態をつき、挙げ句の果ては、モーセに石を投げて殺そうとし、「主は本当に自分たちのうちにおられるのだろうか」とうそぶきさえしたのでした。神は岩から水を出して、彼らに与えられたのですが、その地はマッサ(試み)とかメリバ(小言)と呼ばれたのでした。
神は試みるべきお方ではありません。信頼し、従うべきお方です。主は従う者を決して困難の中に置き去りにされるような方ではありません。つぶやくのをやめて、感謝して従っていきたいと思います。
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申命記 6章20〜25節 2016年1月24日 |
後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。その時あなたはその子に言わなければならない。(20〜21) 主が与えられた律法は、周辺諸国とは全く異なるものでした。律法を与えられ、その律法に生きる民とされているということ自体がイスラエルの民を他の民と区別する特徴的なことだったのです。そして、そのことに気づいた子どもたちはきっとそのことについて親に問うときが来ることでしょう。その時には、きちんと神が自分たちにしてくださったその御業を語り、その律法が与えられている理由を語らなければなりませんでした。親はきちんと子に教えるべきことを教え、伝えるべきことを伝える責任がありました。
確かに最初の世代は、まだエジプトの奴隷の生活の記憶をもっていたでしょうし、自分たちがどのようにあがなわれ、また神がどんなに大きなことをしてくださったかを直接経験していました。しかし、やがて荒野の生活さえ知らない世代が育っていくのです。その意味でも親の世代の責任は大きなものでした。
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