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申命記 32章1〜43節 2016年3月17日 |
主は岩であって、そのみわざは全く、
その道はみな正しい。
主は真実なる神であって、偽りなく、
義であって、正である。(4) モーセが神から教えられて、イスラエルの民に語り聞かせた歌の言葉です。この歌の中では、主がどのようなお方であるかが語られ、また主がどのような大きな救いの御業を行ってくださったかが語られ、またそのような主を捨て、背いて生きることがどんなに愚かなことかが語られ、またその結果引き起こされる災いと、そこからの回復が語られたのでした。
主は岩であって、私たちがすがることのできる確かなお方、主は正しく真実であって偽りがなく全きお方です。このお方がイスラエルを造り、救い出し、荒野にあっても彼らを守り、導かれたのです。ですから、このお方以外の神々にすがるのは本当に愚かなことです。しかし、イスラエルは荒野においても主に背き、また主が備えられた約束の地においても、主から離れていくのです。
けれども、「わたしこそは彼・・・わたしのほかに神はない」とおっしゃるお方は、そんなイスラエルをもあがない回復しようとしておられました。
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申命記 32章44〜52節 2016年3月18日 |
この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう。(47) モーセとヌンの子ヨシュアは共に、主から与えられた歌を民に語り聞かせました。イスラエルの民はこの言葉を自ら自分の心におさめるだけでなく、その言葉を子どもたちに語り、教えなければなりませんでした。この言葉は単なる教訓の言葉ではなく、いのちの言葉です。この言葉を心におさめ、守り行うことが主が約束された地にあって長く生きるための鍵だったのです。約束の地に入ることはゴールではありません。主が私たちに願っておられることは、私たちがその地にあって長く生きることなのです。
そして、私たちに命を与えるのは、神の言葉です。今の私たちにとっては聖書の言葉と言うことができます。聖書の言葉こそが、主によってあがなわれ、主の民とされた私たちが、主が備えられた祝福の世界の中で長く生きていくための指針です。御言は命の道を示し、また私たちに命を与えるのです。
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