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民数記 14章1〜10節 2015年11月19日 |
わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。(7〜8) スパイたちの報告を聞いた時に、イスラエルの民は声を上げて叫び、泣き明かします。そして、モーセとアロンにつぶやき、「エジプトの地から出てこなければ良かった」と文句を言い、「エジプトに帰ろう」と言い始める始末です。
十二人のスパイの中で、「攻め上ろう」と言ったのは、ヨシュアとカレブの二人だけでした。彼らは自分の衣を裂き、全会衆に言います。「その地は非常に良い地です。そして、主はそこに私たちを導いて、その地を与えて下さるでしょう」。確かに、そこにいるのは背が高く強い民かも知れません。城壁は堅固で高くそびえ立っているかも知れません。しかし二人は、共にいて下さる主を見つめていました。主はどんな強い敵でも取り除いて、その地を与えることがおできになると、彼らは信じていたのです。しかし、イスラエルの民は、彼らの声に耳を貸そうとはしませんでした。ネガティブで不信仰な発言は民全体を萎縮させてしまっていたのです。
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民数記 14章10〜25節 2015年11月20日 |
どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください。(19) 主はしばらく、彼らのやりとりをごらんになりながら沈黙しておられましたが、ついに栄光のうちにご自身を表し、語り始められます。「いつまでわたしを信じないのか」。主はエジプトで奴隷であったイスラエルをその力強い御手をもって救い出されました。紅海を二つに割ってその間に乾いた道を造り、イスラエルの民を進ませなさいました。水を与え、マナを与え、肉を与えて、民を養ってくださいました。しかし、それでも、民は主を信じようとしなかったのです。
神は、イスラエルの民を滅ぼして、モーセから強い民を起こそう、とおっしゃいます。この提案はモーセにとっては悪い話ではなかったはずです。しかし、モーセはイスラエルの民をかばい、主の語られた言葉をよりどころとして、彼らのためにとりなしの祈りをささげます。そして主は、「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう」と語られたのでした。
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民数記 14章26〜38節 2015年11月21日 |
その地を探りに行った人々のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブとは生き残った。(38) 確かに、主はイスラエルの民を滅ぼしてしまうことはやめられました。しかし、同時に、罪を犯した民はその実を刈り取らなければなりませんでした。神が与えようとしておられた乳と蜜との流れる地を悪く言った十人のスパイたちは疫病にかかって死にました。また「なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきてつるぎに倒れさせられるのか」とつぶやいたイスラエルの民、シナイの荒野で数えられた二十歳以上の人々は皆、荒野で死ななければなりませんでした。神の約束してくださった地に入ることはできなかったのです。イスラエルの民はスパイがその地を行き巡った四十日の分、一日を一年として四十年、荒野を旅しなければならなくなってしまいました。そして、主のあわれみによって、子どもたちの世代が約束の地に入って行くことを許されたのでした。
主はあわれみ深いお方です。しかし、同時に、不信仰や罪は私たちの生涯に大きな傷を残すことになりかねません。主を恐れ、信頼して歩みたいと思います。
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民数記 14章39〜45節 2015年11月22日 |
あなたがたは、それをなし遂げることもできないのに、どうして、そのように主の命にそむくのか。(41) イスラエルの民は神の言葉を聞いた時に、とても大きな悲しみの中に置かれます。民は後悔し、それならやっぱり攻めて行こうと言い出します。けれども、主に従うには時があります。悔い改めても、罪を犯し、従わなかった時点に戻ってやり直すことはできないのです。できるのは、「ああ、自分は間違っていた」と気づいたそこで悔い改め、そこから神に従う決断と行動を積み重ねていくことです。
イスラエルの民が「攻めて行こう」と言った時、モーセはイスラエルの民に「上っていってはならない」と警告されました。主が共に行ってくださらなかったら、到底かなう相手ではありません。けれども、イスラエルの民は、攻めて行けと語られる時に攻めて行かず、行ってはならないと語られた時に出て行ったのでした。何をするかということ自体以上に、それは主の御心なのか、またそれをすることは主に従うことになるのか、ということを問いながら歩んで行くことが大切です。イスラエルの民はモーセの警告の通りに撃ち破られてしまったのでした。
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