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民数記 9章1〜14節 2015年11月10日 |
あなたがたのうち、また、あなたがたの子孫のうち、死体に触れて身を汚した人も、遠い旅路にある人も、なお、過越の祭を主に対して行うことができるであろう。(10) エジプトを出て一年がたとうとしていました。エジプトを出る時に、イスラエルの民は小羊の血を家の入口のかもいと二本の柱に塗り、羊の肉や種なしパンを食べました。そして、主は毎年そのことを忘れないようにと、最初の時と同じように過越の祭を守るように、教えておられたのです。これはイスラエルの民にとって大きな喜びの時でした。
ところがたまたまその最初の過越の祭の時に、死体に触れて身を汚したため、祭に参加できない人々がいて、モーセに善処を求めました。モーセは神に問い、神は死体に触れて身を汚したり、やむを得ず遠くに旅に出ていたりして祭を祝うことのできない人々のために、ひと月遅れで祭を祝うことを許されたのでした。この祭は義務という以上に祝福であり、恵みだったのです。それは私たちが礼拝を守ることともつながってきます。私たちは主日を喜びをもって祝うのであり、そのことを許されているのです。
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民数記 9章15〜23節 2015年11月11日 |
彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。(20) 神を礼拝するあかしの幕屋が建ち、これが聖別された時、主の栄光をあらわす雲が幕屋をおおいます。そして、それは昼は雲の柱、夜は火の柱のように見えました。その雲が幕屋の上にとどまっている時には、イスラエルはそこに宿営を張って、そこにとどまりました。しかし、雲が幕屋を離れて上る時は、道を進んだのでした。どれだけ長くそこにとどまっていようと、雲がそこにあるうちは動きませんでしたし、またどんなにその場所にとどまる期間が短かったとしても、雲が上る時にはすぐに道に進みました。それは早朝でも、夜でも変わりません。進むも止まるも、ただ主の命に従って歩んだのです。
私たちの歩みにおいても同じです。主が命じられることに、直ちに従いたいと思います。私たちの思いや願いもあるでしょう。都合もあるかもしれません。しかし、主に従う道が最も確かで祝福に満ちています。主に従うということは、まさに主の御臨在の中にとどまり、いつも主と共に歩むということだからです。
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