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民数記 5章1〜10節 2015年11月3日 |
男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである。(3) 重い皮膚病になったり、流出を負ったり、死体に触れて汚れた人々は、きよくされるまで、宿営の外にとどまらなければなりませんでした。私たちは、宗教的な汚れを負ったゆえに宿営の外に出ていかなければならなくなるというのは、悲しみや苦難の傷をまた広げてしまうように思えてしまいます。確かにそれは厳しいことだったことでしょう。しかし、そこには、もう一度、きよいものとされて宿営の中に戻ることを許される希望がありましたし、神に聖別された民として、きよさを守るという意味ではとても大切なことだったのです。
また誰かが罪を犯して、他者に損害を与えたときには、五分の一を加えて相手に返すことになっていました。罪を悔い改め、神のゆるしをいただくということは、単に懺悔するというだけではなく、償いが必要でした。聖なる民として生きるということはそのような真実さをも含んでいたのです。
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民数記 5章11〜31節 2015年11月4日 |
これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるもの・・・(15) 姦淫の罪は男も女も共に死罪と定められていました(レビ二十10)。ただ実際には、明るみになかなか出てこない事案も多くあったことでしょう。今日の聖書の箇所では、そのような疑いを夫が抱いた場合の規定です。夫婦関係において、相手を信じることができないことほど悲しいことはありません。疑いは親しい交わりを破壊してしまいます。そのような場合に、事実を確認する方法がここには記されています。
この幕屋の床のちりを入れた水自身は科学的には無害なものですが、すべてのことをご存じの主は、罪を犯した者にはのろいを下し、潔白な者にはさらに豊かな祝福を与えて下さったのでした。
もちろん、姦淫は死罪と定められている中で、神はすべてのことをご存じだということを頭で分かっていても、その罪を認めることは決してやさしいことではなかったでしょう。しかし、主イエスの十字架のあがないが与えられている今も、自らの罪を覚え、それを認めることは、ゆるしへの最初のステップです。
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