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民数記 6章1〜21節 2015年11月5日 |
彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。 (8) ナジル人とは、神に聖別された人という意味の言葉ですが、自分で志願して、または神から特別な召しを与えられて、神に自らをささげた人を指していました。ナジル人となった人は、ぶどうから獲れたものを食べず、神の毛を剃らず、死体に近づきませんでした。
具体的には、特別な感謝をささげようとする時や、悔い改めをする時に、ナジル人としての誓いを立てるということをしたようです。士師記に登場するサムソンのように、一生ナジル人として生きるようにと、生まれる前から特別な選びをいただいている人もいましたが、基本的にはナジル人としての誓願は自発的なものであり、またその期間も自分であらかじめ決めることができました。ただその自分で定めた期間は、ナジル人としての生き方を貫くことが求められていました。
もちろん、イスラエルの民はみな主の民であり、主に聖別された民でした。しかし、同時にその中でも、特別に主にささげて生きることを求められている人々がいました。知ってください。あなたもそのひとりです。
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民数記 6章22〜27節 2015年11月6日 |
願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。(24〜26) 祭司として召されたアロンとその子たちは、イスラエルの民を祝福するように求められていました。この祝福は、祭司の祝福の祈り、祝祷です。
祭司は主の祝福を求めます。この祝福の言葉では「主」という言葉が三度繰り返され、「あなたを(に)」という言葉が六回繰り返されます。私たちを祝福し、恵みを与え、平安(シャローム)を下さるのは、主だからです。そして、祭司はこの主の祝福は「あなた」に向けられているのだと告げるのです。
「み顔」という言葉もここで鍵になる言葉の一つです。神は霊ですから、私たちは神の顔を肉眼で見ることはできません。この「み顔をもって照らす」とか「み顔を向ける」という表現は、神との正しい関係の中に生きる、また神との親しい交わりの中にとどまるということを表しています。私たちにとって何よりの祝福は、神の喜びの中にとどまることなのです。
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