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レビ記 27章1〜8節 2015年10月22日 |
人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は・・・ (2) 「主に身を献げる誓願」とは、神に従い、神に何らかの誓いを立てることです。そのような時には、実際には、自分を祭壇にささげることはできませんので、その自らにふさわしい値積り金をささげました。働くことのできる男性は五十シケルとありますが、これは決して、この当時の少額ではありません。奴隷が三十シケルほどで売り買いされていたからです。もちろん、このささげものは、お金をささげたから、これで自分をささげたことにさせてください、ということではなく、本当は自分を受け入れていただくために、かえって主なるお方にあわれみと忍耐をいただかなければいけないということがあったからです。
もちろん、それだけの大金を支払うことができない人には、その人に応じた値積り金を祭司が定めました。ある意味、私たちが毎週ささげる献金にもそのような意味があります。いずれにしても精一杯の献金をささげることによって、私たちは、自らが神のものであることを表明しているのです。
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レビ記 27章9〜34節 2015年10月23日 |
地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。(30) 自分の家畜・家・畑などをささげる時の規定が記されています。ただし家畜などのういごや、地の産物・家畜などの十分の一はもともと神のものとされていましたから、それは自発的なささげものとして、神の前にささげることはできませんでした。それはあくまでも、最初から主のものだったのです。イスラエルの民がささげた十分の一で、主の宮の奉仕をするレビ人たちは支えられており、また、レビ人たちのささげる十分の一で、アロンやその家族など祭司たちが支えられました。
もちろん、多く与えられている人はさらに豊かにささげるということがあってよいでしょう。しかし、イスラエルでは十分の一は主のものとされていました。もちろん、私たちは与えられているものを上手に管理しながら生活していかなければなりません。しかし、同時に、主は十分の一を献げる者を祝福してくださいます。そこで私たちは、主に信頼することを学び、主の御真実を経験していくのです。
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