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レビ記 25章1〜7節 2015年10月15日 |
安息の年の地の産物は、・・・あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう。 (6〜7) イスラエルの民は基本的に家畜を飼って生活する遊牧民でした。そしてエジプトでも家畜を飼いつつ、奴隷としてエジプト王パロの命じる働きに従事していました。しかし、神の約束しておられる約束の地に入っていくときには、彼らは土地を割り当てられて農耕を始めることになります。六年種をまき、耕作をしたなら、七年目には休む・・・順番に休耕地を作って、畑を休ませるということは農業という意味でも理に適っていることを私たちは知っています。
しかし、これはいわゆる、順番に畑を休ませるというのとは少し違います。その年は、安息年として、農作業自身を休むようにと言われているからです。その年には、それまでの年に蓄えたものを食べ、また自然に生えたものを食べました。そしてその安息年に畑に生えてきたもの、木になった果物は、奴隷でも雇人でも外国人でも自由に採ることができました。それは貧しい人々や家畜や動物の食物となったのです。
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レビ記 25章8〜17節 2015年10月16日 |
その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。(10) 安息の年を七たび繰り返して、五十年目はヨベルの年といいました。7は聖書では完全数なのですが、その7を七たび繰り返して、その翌年の贖罪の日には、雄羊の角で作ったラッパを全国に響き渡らせて、自由を触れ示しました。ヨベルとはこの「雄羊の角のラッパ」のことです。
イスラエルでは畑は、その土地の所有権を売るのでははなく、ヨベルの年までの使用権を売りました。そしてヨベルの年にはその土地は再び、そのもともとの所有者に戻ったのです。また、奴隷として身を売った人も、ヨベルの年には自由にされて、自分の土地に帰ることができました。ですから、このヨベルの年を、「大解放の年」とも言います。
主イエスがルカ4章16節以下の箇所で読まれたイザヤ書の「恵みの年」とは、まさにこの大解放の年のことです。このヨベルの年の祝福は、主イエスにあって完全な形で成就したのです。
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レビ記 25章18〜24節 2015年10月17日 |
わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。(21〜22) 七年ごとの安息年に種をまいたり、刈り取りをしないとしたら、その安息年には何を食べたらよいのでしょう。安息年を守るというのは理念としては分かるけれども、現実的にはナンセンスだ・・・イスラエルの人々の中には心配する人々もいたことでしょう。それは私たちが安息日を守り、主を礼拝するというときにもわいてくる大きな懸念かもしれません。
しかし、ここで主は、六年目には特別な祝福が注がれて、三年分の産物が実り、七年目では食べきれず、九年目の収穫があるまで六年目の収穫を食べているだろうとおっしゃいます。私たちは何も心配する必要はありません。主に従っていって、食べるものがないということはありません。主は私たちのすべての必要をご存じでそれを満たすことがおできになるのです。
主は、ご自身に信頼して、従う者を祝福してくださいます。私たちが主の御言に従って生きるときに、地は豊かに実を結び、私たちは安らかに住むことができるのです。
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レビ記 25章25〜55節 2015年10月18日 |
あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。(25) 誰かが落ちぶれて、その所有の畑を売った場合には、彼の近親者が立って、それを買い戻すことになっていました。この買い戻すことを、「贖う」とも言います。私たちも罪の負債を負い、ある意味、破産状態にありました。しかし、私たちの近親者なる主イエスが、私たちのことを罪の中から買い戻してくださいました。その買い戻しのための犠牲、その値は、主イエスご自身の尊い血潮でした。主イエスの命が支払われたのです。この買い戻しのためには近い親戚の者がその役を買って出ることになっていました。まさに、主イエスは、神の位を捨てて、地に下り、人となって、私たちの近親者となり、私たちを贖ってくださったのです。
もし、その人を贖う人が誰もいなかった場合にも、ヨベルの年が来ると、身売りをしたその人は自由になり、売ってしまった畑もその本人のものとして戻されました。ヨベルの年はまさに大きな主の恵みの年だったのです。
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