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レビ記 26章1〜13節 2015年10月19日 |
もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば・・・わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。 (3、12) 今日の聖書の箇所には、主の定めに歩み、その戒めを守って生きる者に与えられる祝福が記されています。祝福の生涯は、主の御言に聞き従うことから来るのです。季節ごとに雨が与えられ、地を潤して豊かな実りをもたらします。周辺諸国との間にも平和が与えられ、敵が襲ってきても追い払うことができます。多くの子どもが与えられ、人々が増えていきます。けれどもどのような目に見える物質的な祝福にまさって、神が与えて下さる豊かな祝福は、主に愛され、主がイスラエルのうちにとどまり、主がイスラエルの神となり、神に「わたしの民」と呼んでいただくことができるということです。
主は本当にイスラエルの民のためにそのような恵みと祝福を与えたいと願っておられました。そのためにこそ、主は奴隷であったイスラエルの民を贖い出し、自由なものとしてくださったのです。主が私たちの与えたいと願っておられる祝福の道を喜びをもって歩むお互いでありたいと思います。
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レビ記 26章14〜39節 2015年10月20日 |
しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば・・・(14〜15) 今日の聖書の箇所には、神に聞き従わず、戒めを守らず、神との契約を守らない時に加えられる災いについて記されています。病や敵、飢饉などの災いです。もちろん、そのような苦難がすべて神からの罰だということではありません。しかし、神が罰として、また私たちが目を覚まして、主に立ち帰るようにと、私たちを困難の中に追い込まれることもあるのです。
ここでの災いの特色は、悔い改めず、神に逆らって歩みつづけるなら、七倍、また七倍と、災いが重くなっているということです。けれども、これは、神が一気に私たちを滅ぼしてしまうのでなく、何度も悔い改めのチャンスを下さっているということもでもあります。
最後は、イスラエルの民が、国から追い出されて、捕囚の民となるということでした。悲しいことですが、後にこれらはすべて、イスラエルの民に実現します。しかし、神はどこまでも、イスラエルの民が悔い改めて神に帰ることを願っておられたのでした。
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レビ記 26章40〜46節 2015年10月21日 |
わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主である。(45) 神に従って生きる時に与えられる祝福について語られ、次に、神に背いて歩む時に臨む災いについて語られた後に、イスラエルの民が罪を犯し、神からの裁きの下に置かれても、彼らがその罪を認めて悔い改めたらどのようになるかが記されています。
神はその悔い改めを受け入れて、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約を思い起こしてくださるというのです。確かに彼らはその罪の結果を負わなければならないでしょう。しかし、たとい敵の地に捕らえ移されて行ったとしても、神は捕囚の地にあってもその約束を覚え、民を滅ぼし尽くすことはないというのです。
もちろん、何をしても主はゆるしてくださるからと開き直ることはあってはなりませんが、私たちがこの地上に置かれている間は、悔い改めるのに遅すぎることはありません。ただ悔い改めを先延ばしにすればするほど、その罪の結果は深くなっていきます。主のあわれみにすがりつつ、誠実な歩みをさせていただきたいと思います。
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