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レビ記 15章1〜18節 2015年9月25日 |
流出ある者が、水で手を洗わずに人に触れるならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。(11) 1節で「肉」と訳されているのは男性性器のことです(新改訳では「隠しどころ」)。ですから、ここで取り上げられているのは、病による性器からのなんらかの異常漏出のことです。そのような症状を負う者は汚れた者として、その寝床や座ったところまで汚れたものとされましたし、その人のつばきでさえも汚れているとされました。またそのような汚れを負っている人が、手を洗わないで他の人に触れるならばその人もまた汚れたものとされました。ただそのような汚れを移された場合には、その汚れは夕までとされています。
ただ、汚れを負っていた本人は、その流出が終わるまでは汚れを負い続けましたし、流出が止まっても七日間は汚れを負い、その後、罪祭と燔祭をささげて後、きよいものとされました。イスラエルの民にきよくあることを教えると共に、ある意味、そこには、そのような病を負っている人が女性と関係を持つことによって、弱い立場にある女性に病をうつすことのないようにという配慮もあったのでしょう。
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レビ記 15章19〜33節 2015年9月26日 |
このようにしてあなたがたは、イスラエルの人々を汚れから離さなければならない。これは彼らのうちにあるわたしの幕屋を彼らが汚し、その汚れのために死ぬことのないためである。(31) ここでは女性の流出について語っています。月経の場合であっても、出血のある間は汚れた者とされました。それは月経中の女性に体を休める時間を与える神の配慮でもあったのでしょう。また通常の期間を超えて出血が続くときには、出血が止まるまでは汚れた者とされました。主イエスの時代に、主イエスの後ろから近づいてその衣のふさにさわった女もそのような状況でした。
出血が止まって八日目に罪祭と燔祭をささげて後、その人はきよいものとされました。神はイスラエルの民をきよく守ろうとされたのです。それはイスラエルの民がこれから入って行こうとしているカナンの地の人々の生き方と明らかに違うものでした。神がイスラエルの民に自ら清くあることを求められたのは、まさに、聖なる主が、イスラエルのうちに住んでおられたからです。ただ、今、主は外面的な汚れではなく、私たちの心のうちに住むために、私たちの心のうちにきよさを求められることを覚えていたいと思います。
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