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レビ記 17章1〜16節 2015年9月29日 |
肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。(11) 贖罪の日にあがないにあずかり、神との正しい関係の中に生かされるようになったイスラエルの民はどのように歩んで行くのでしょうか。そのことが十七章以降に記されていきます。
イスラエルにおいては、牛、羊、やぎは神にささげるために用いられました。そして、それらの動物を私的なことに用いるときでも、それは会見の幕屋の入り口で酬恩祭としてほふり、その血をそこに流し、脂肪は焼いてささげ、祭司の取り分は祭司に渡し、残りの肉も主にささげられたものとして、そこから持っていて食用にしました。それは、それらの動物が偶像礼拝に用いられたり、他の宗教のように血を飲むということがあってはならなかったからです。
血はいのちそのものとされました。血はあがないのために用いられるべきものだったのです。主イエス・キリストの十字架の血は、すべての罪からわたしたちをきよめます(Tヨハネ一7)。
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