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レビ記 6章1〜7節 2015年9月9日 |
こうして、祭司が主の前で彼のためにあがないをするならば、彼はそのいずれを行ってとがを得てもゆるされるであろう。(7) ここでは愆祭を献げるべきケースの中で対人関係の中での罪について取り上げています。人から預かっていたものや拾った落とし物を自分のものにしてしまったり、または人をだまして人のものを奪い取った場合などです。罪を犯した人は愆祭の雄羊を主のもとに持ってきてささげました。それはその罪がものを奪った相手に対する罪であると共に、「主に対する不正」として認識されたからです。私たちは主の前にいるのです。そして、愆祭の犠牲がささげられ、あがないがなされるときに、そのとがはゆるされたのでした。
ただ、そのような場合には、単に愆祭をささげるというだけでなく、きちんと相手に対して償いがなされなかればなりませんでした。そして償いは、人からとったものを返すというだけなく、奪い取ったものに五分の一を加えて返すことになっていました。新約聖書に出てくるザアカイはもし不正をしていたら四倍にして返します、と言いました。主と出会ったザアカイの喜びが感じられます。
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レビ記 6章8〜13節 2015年9月10日 |
祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。(12) 祭司に対する燔祭の規定が書かれています。燔祭は夜の間もずっと燃え続くようにしなければなりませんでした。祭壇の火は消してはならなかったのです。その火が消えないようにするために、祭司たちは灰を取り除いて、宿営の外の灰捨て場に捨て、朝ごとにたきぎを置き、また燔祭をその上に献げました。またそこには酬恩祭として献げられる動物の脂肪もささげられました。そのようにして祭壇の火は燃え続いたのです。私たちの祭壇の火は燃えているでしょうか。
燔祭は、私たちの全き献身を表しているのだと、すでに学びました。献身は一度で終わりではなく、毎朝再確認されるべきものでしょう。私たちは朝ごとに主に自らをささげます。自分のものではなく、主にささげられたものとして、自分のために生きるのではなく、私たちを愛し、その力強い御手をもって、私たちを罪の中から救い出してくださった主のために生きるのです。
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レビ記 6章14〜18節 2015年9月11日 |
素祭の麦粉一握りとその油を、素祭の上にある全部の乳香と共に取って、祭壇の上で焼き、香ばしいかおりとし、記念の分として主にささげなければならない。(15) 穀物のささげものである素祭は、油や乳香と共に祭壇の上にささげられました。それは主の御前に立ち上る香ばしいかおりでした。祭司たちは人々が持ってきた素祭の中から一握りを祭壇の上で焼き、その残りはアロンとその子たちがそれを食べることができました。ささげられたものは聖なるものとして、聖なる場所で食べたのでした。そのようにして祭司たちはその働きに対する報酬を受けたのでした。
罪のあがないのためには、動物の血が流されなければなりませんでした。ですからこの素祭は、どんなに大きな犠牲を伴うものであっても、あがないのためのそなえものではありません。素祭は、今の私たちにとっては奉仕を意味するのだと、すでに学びました。穀物のそなえものは、多くの汗と労苦に対する報いとして、主が民に与えて下さった収穫の中からささげられるものだったからです。私たちの奉仕も主への香ばしいかおりであるようにと願います。
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レビ記 6章19〜30節 2015年9月12日 |
アロンとその子たちが、アロンの油注がれる日に、主にささぐべき供え物は次のとおりである。(20) 19〜23節には、素祭の中でもアロンとその子たちが祭司として油注がれ、その務めにつくときにささげるべきものについて語られています。十分の一エパとは約二・三リットルです。それを半分は朝に、半分は夕にささげます。油をまぜて平鍋で焼き、それから細かく砕いて、焼いてささげました。アロンがそのことをし、またアロンの後継者として立てられる者たちもみな、このようにささげものをしなければなりませんでした。主がアロンを選んで彼を立てられるとともに、アロン自身も砕かれた神のしもべとしてその務めを負ったのです。民のささげる素祭の場合は一握りを焼き、残りはアロンとその子たちのものになりましたが、祭司のささげるものは全部残らず焼くことになっていました。
人々がささげる罪祭についても、その血は祭壇の周囲に注がれ、その脂肪は祭壇の上で焼かれましたが、残りは祭司が幕屋の庭でそれを食べました。この祭司の食事は、祭司に対する報酬であると共に、祭司の担うべき務めでもありました。
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