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レビ記 19章1〜4節     2015年10月2日

あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。(2)

 レビ記の十一章で取り上げられ、レビ記の中で繰り返されるメッセージがここでも語られています。「聖」という言葉には道徳的な健全さという以前に、「分離する」という意味があります。それは神が私たちをはるかに越えたお方であることを示していると共に、私たちもまた罪から分離し、神のために分離された、特別に取り分けられたものとして生きるということを意味しているのです。そしてこのところではシナイ山で与えた十戒を様々な実例を上げながら取り上げています。聖であるとは、御言を聞き、御言に従い、御言に生かされて生きることであり、まさにそれこそがイスラエルの民を他の諸民族と分けるものだったのです。
 ここでは母と父をおそれるべきこと、安息日を守ること、イスラエルをエジプトから救い出してくださった主以外の神々に心を寄せたり、自分のために神々を造ってはならないことが語られます。まさにイスラエルの民は、主を礼拝する民だったからです。

レビ記 19章5〜22節     2015年10月3日

あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。(18)

 主イエスは律法の中で一番大事なものとして、神を愛することを語られました。どれだけのことを神のためにするかということではなく、仕事の量や結果の善し悪し以上に、その人の神に対する愛を、神は喜んでくださるからです。そして、神を信じ、神を愛して生きる人は自分の隣人のことも自分自身のように愛するのです。ここには十戒の特に後半の人間関係に関する戒めの部分が具体例を上げて解説されています。
 貪欲に生きるのではなく、貧しい人々や寄留者たちに対する思いやりをもって生きること、貧しい人々に対する想像力と思いやりをもって生きること、悪口を言ったり、憎しみや恨みに心を縛られないことなどが語られます。それは、その弱い立場にいる人も自分の「隣人」であることを認めることから始まります。そして、ここには「わたしは主である」という言葉が続きます。自分も隣人も、たといいろいろな違いがあっても共に同じ神によってあがなわれ、その神の御前にいるということを確認するのです。

レビ記 19章23〜37節     2015年10月4日

四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それをさんびの供え物として主にささげなければならない。(24)

 主が導かれる地に入って行くとき、畑にくだものの木を植えたときには、最初の三年間は実を食べることは許されませんでした。その木はまだ割礼を受けていないものとみなされたのです。そして四年目にはその実はすべて主のものであり、主をたたえる賛美のささげものとされたのでした。私たちは自分のふところを肥やし、自分を喜ばせる前に、まず、主に感謝と賛美をささげるのです。
 ここには続いて、魔法や占いを行ってはならないことが記されています。エジプトでも、またカナンの地でも、占い師や魔術師がいて、人々は自分が決断において迷ったときに、そのような人々にすがろうとしました。しかし、それは私たちを愛し、私たちの現在も未来も、そのすべてを御手の中におさめておられる神を否定することです。そして、また多くの場合には人々は自分の結論を支持してくれるような占い師を捜すことになりました。それは自己絶対化と偶像礼拝につながる行為だったのです。



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