バックナンバー
|
レビ記 20章1〜9節 2015年10月5日 |
ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(7) 私たちの罪をゆるし、きよめてくださるのは主の御業です。私たちは自分で罪をなくしたり、汚れた心をきよくすることはできません。しかし、私たちには「みずからを聖別する」責任があります。それは神が嫌われる罪から離れるということであり、また神のためだけに生きるこということもあります。そのような生き方をするためには神の恵みが必要です。「わたしはあなたがたの神、主」という宣言は、イスラエルをエジプトの奴隷生活からその力強い御手によって救い出されたお方という意味があります。この救いの神は、単に私たちを救ってくださっただけでなく、私たちが喜びと確信に満ちて、神のものとして生涯を歩むことができるようにしてくださいます。しかし、そこには神に信頼する私たちの決断も求められているのです。
そして、みずからを聖別する決断をして一歩を踏み出すときに、「わたしはあなたを聖別する」とおっしゃるお方がいてくださることを覚えたいと思います。
|
レビ記 20章10〜27節 2015年10月6日 |
あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。(26) 姦淫や近親相姦など性の乱れについて語っています。それはイスラエルの民が入って行こうとしているカナンの地に広く広まっていることでした。しかし、そのような罪がイスラエルの中にあってはならなかったのです。今日の私たちを取り巻く世界においても性の乱れは深刻な拡がりを見せています。それは「姦淫」という言葉さえも死語になりそうなほどです。しかし、性の罪は、神様がひとりひとりに与えて下さっているパートナーに対する裏切りであり、家庭を破壊し、また自分自身をも傷つける行為です。
どんなに大多数の人々がそのことを問題にしない時代になったとしても、また真実に生きようとする人の方がおかしいかのように言われる時代が来たとしても、私たちは、主の聖なる民としての「区別」を失ってはいけません。主が私たちに乳と蜜の流れる地を与えて下さったのは、私たちが聖なる者として生きるためだからです。
|
|
|