バックナンバー
|
列王記下 4章1〜7節 2016年10月12日 |
彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。(3) 「預言者のともがら」というのは、エリシャの指導の下で神の御声を聞き、それを語ることを学ぶ預言者学校の生徒のことを指しているのだろうとされています。彼には家族がいましたが、彼は神の召しに答えて、エリシャのもとに来ていたのでしょう。夫が預言者学校に加わる中できっとその妻も二人の子どもたちも貧しい中に置かれたと思います。しかし、その夫が死んでしまいます。残された家族はますます困窮し、借金の取り立てに来る人は、彼女の二人の子どもたちを売って借金を返すようにと迫ったのでした。神に従っていった一人の人とその家族になぜこのようなことが起こるのでしょうか。
窮状を聞いたエリシャは、家に何があるか、と尋ねます。家にあったのはただ一びんの油だけでした。エリシャはあいた器をたくさん集めさせます。主は、不思議を行い、その空の器を全部油で満たしてくださったのでした。それを売ったお金は借金を返しても余りあるほどで、その残りでやもめと子どもたちは暮らすことができたのでした。
|
列王記下 4章8〜17節 2016年10月13日 |
その女は夫に言った、「いつもわたしたちの所を通るあの人は確かに神の聖なる人です」。(9) シュネムという町に一組の裕福な夫婦が住んでいました。その夫婦は畑をもって財を築いていたようです。このシュネムの町にエリシャが立ち寄った時、この裕福な婦人がエリシャに声をかけ、食事をごちそうしたのでした。そしてエリシャがその町を通る時にはいつもそうしていたようです。この女性はある日、夫に話をして、自分たちの家の屋上にエリシャの休む部屋を作りました。彼女は自分の夫にエリシャのことをこう言います。「あの人は確かに神の聖なる人です」。彼女はエリシャの中に主に仕える者としての姿を見たのでしょう。私たちは人に見せようと意識して信仰する訳ではありません。人の目を気にして、外見ばかりを気にするようになると、それも違うでしょう。しかし同時に内にあるものは自然と外ににじみ出てくるものです。人は私たちのことをどのように見ているでしょうか。
エリシャはその夫婦に子どもがいないことを知って、来年の今頃子どもが与えられていると語ります。主はこの夫婦の愛の奉仕にも豊かに報いてくださったのでした。
|
列王記下 4章18〜37節 2016年10月14日 |
子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。(30) 子どものいない夫婦が思いがけず子どもを与えられて、どんなに大きな喜びがあったことでしょう。ところが突然の不幸が彼らを襲います。成長したその子が頭痛を訴えていたかと思うと、死んでしまったのです。私たちの命は何とはかないものでしょうか。そのシュネムの女はすぐにろばを用意してカルメル山にいたエリシャのもとに行きます。
女はエリシャに子どもが死んだことを伝えます。彼女はエリシャの神がその子を再び生かすことができると信じていたのです。エリシャは彼女の家に行き、死んだ子どもの姿を見ると、戸を閉じて主に祈りました。エリシャにとっても信仰の大勝負だったと思います。エリシャは自分の先生であったエリヤが話してくれたザレパテの女の息子が生き返った話を思い起こしたかもしれません。そしてエリシャが自分の身をその子の上に伸ばしたとき、子どもは息を吹き返して、目を開いたのでした。主はこの女とエリシャの信仰に答えてくださったのです。
|
列王記下 4章38〜44節 2016年10月15日 |
そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。(44) エリシャのエピソードが続きます。ギルガルの町でエリシャが預言者のともがらたちを教えていたとき、ききんがあって、とてもみんなお腹を空かしているということがありました。エリシャは弟子たちにごちそうをしたいと野菜の鍋をします。いろいろなものが鍋に入れられたのですが、食べようとしたときに、その鍋の中に強い毒性のある野うりが刻んで入っているのに、弟子たちは気づきます。もう全部無駄になってしまいました。食べたら死ぬほどの猛毒です。弟子たちはどんなにがっかりしたことだろうかと思います。しかし、エリシャが粉を持ってきて、かまに入れると、毒はなくなってしまったのでした。
次の話は大麦パン二十個と新穀一袋で百人の人たちが満腹した話です。主イエスもさびしいところで五千人の人たちを満腹させなさいました。神は私たちの全ての必要を知り、私たちを守り、また私たちを満たすことができるお方なのです。
|
|
|