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サムエル記下 12章1〜15a節 2016年8月2日 |
ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です・・・」ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。(7、13) ダビデのところに預言者ナタンがやって来ます。そして、自分の知っている二人の人の間を裁いてほしいと求めます。一人の金持ちが自分の客のために小羊をほふるのを惜しんで、貧しい隣人のたった一頭の小羊を取り上げて調理した、と言うのです。ダビデは「その人は死ぬべきだ!」と叫びます。しかし、ナタンは「あなたがその人です」と答えたのでした。私たちは正義感を振りかざして人を裁くことはできるのですのですが、自分のことにはなかなか気づかないものです。ダビデはまさに自分が叫んだように、自分が死にあたる者であることを知らなければなりませんでした。ダビデは他の家来たちの目もあったでしょうけれども、そのまま言います。「わたしは主に罪を犯しました」。ダビデは悔いくずおれるようにして自分の罪を認め、悔い改めたのでした。
そして主もまた、そんなダビデの罪をゆるし、除かれたのでした。
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サムエル記下 12章15b〜31節 2016年8月3日 |
ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。(21) 自らの罪を示されたダビデは、神と人の前で自分の罪を告白し、悔い改めました。そして神もまたダビデを赦されたのでした。神とダビデとの生きた関係が取り戻されました。しかし、同時にダビデがバテシバに産ませた最初の子はダビデの必死の祈りにも関わらず死ななければなりませんでした。このことはダビデにとってとても厳しくまた悲しいレッスンだったと思います。神は罪を赦されます。しかし、私たちはある意味で罪の結果を負わなければならないことがあります。だから神は悔い改めたら赦してくださるのだから、好きなだけ罪を犯しておこうということにはならないのです。
しかし、私たちはこのところから神がどんなにあわれみに富んだお方かを学びます。神はダビデとバテシバに次の子をまた与えてくださいました。そして、神はその生まれた子、ソロモンを愛されたのでした。主がソロモンに与えられたのは、「エデデア=主に愛されたもの」という名でした。
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