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ホセア 6章1〜11節    2018年7月14日

わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。(6)

 この1〜3節はイスラエルの民のすばらしい悔い改めの言葉のようにも聞こえます。「主に帰るときに、主は包み、癒し、立たせてくださる。主は地を潤し豊かな実りをもたらす雨のように、恵みを私たちに注いでくださる」・・・その通りです。けれどもこの箇所の前後を読んでみると、問題はもう少し複雑なようです。イスラエルの愛は朝に空にかかっていても日が昇ると消えてしまう雲や、また朝露のようで、すぐに消えてしまい、あてにならない。確かにイスラエルの民は犠牲を携えて主のもとに来て、また燔祭(全焼のいけにえ)をささげるかもしれません。しかし、彼らの中にはいつくしみがなく、神を知ることがないのです。悔い改めを口にしながら罪を犯し続けているとしたら、それは実に安易で口先だけの悔い改め、口だけの信仰ということになってしまいます。変わらない真実をもって主のみ言葉にすがり、神を愛し、神との親しい交わりに生きることを主は期待し、喜んでくださるのです。 



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