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罪人をあがなう神 ローマ 3章 21-26節
新谷聡一郎 師
彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(24)
パウロは、イエス・キリストによる福音、どんな人間であっても神の恵みによって救われると教えています。すべての人がこの救いを必要としています。なぜなら、すべての人は罪人だからです。私たち全人類は罪人として生まれ、罪を犯す者になりました。罪のもたらす結果は、死、永遠の滅びです。ローマ人の手紙には、罪をよしとし、罪を犯してもいいとさえ思う、罪に堕ちた人間の姿が描かれています。
義とは、正しい、真っ直ぐという意味で、人間は不義なる、心が曲がった者と言えます。罪ある人間の二つの姿は、罪を犯してもいいと考え、自分の好きなように生きていく姿と、自分には罪がなく、私は大丈夫だとする姿があります。この両者に共通することは、罪を裁く神を無視し、自分の罪を認めない。神にお詫びして、立ち帰ろうとしないことです。
神は罪人を裁くお方です。すべての人間が罪人であるならば、滅ぶしかないのです。神は、人間が神の言いつけを守り、従っていくならば、人間はその救いを得るという約束をされました。しかし、人間は神を裏切ってしまいました。その約束が果たされないのでしょうか。断じてそうではなく、神は義なる、正しいお方ですから、約束した
ことを必ず果たして下さり、救いを与えて下さいます。それが神なのです。人間が裏切り、神から離れ、背いても、神の方では、その約束された救いを果たしてくださるのです。
神が罪を裁かれるならば、私たちはもう生きてはいけず、滅びしかありません。その罪が赦されるためには、償いが必要です。罪を償う方法は、罪のないお方、主イエスが私たち罪人の身代わりに死ぬことだけです。主イエスは、約二千年前に私たちの身代わりとなって十字架にかかり、血を流して全存在を投げ出して下さいました。罪人である私たちが受けなければならなかった神の裁き・怒りをご自身が全身で受け止めて下さり、贖いの供え物としてご自身を捧げられたのです。
贖いとは、買い戻す、取り戻すことです。神様は主イエスを私たちに与えて、自ら尊い犠牲を払って、私たちをご自身のところに取り戻し、神のものとして下さいました。神は私たちを愛して下さり、いつも受け入れて下さるのです。神は、真実に私たちをお救い下さるお方です。
神の救いを無視する生き方ではなく、いつも神様に従い、罪を示されたならば、「主よ、お赦し下さい」と悔い改めて、神に立ち帰って、ご一緒に神と共に歩んで行きましょう。
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