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時にかなって美しい 伝道の書 3章 1〜11節
佐藤 義則 師
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
(伝道の書3:11)
神は天地万物を創造され、われわれ人類を創造されました。私たちひとりひとりは、神の測り知れない英知と力によって造られた神の作品であり、神の会心の作(創世記1:31)と言っても過言ではありません。それと同様に、私たちの人生を、神は最善最上のものとして計画されました(エレミヤ29:11)。しかし、人生というものは少なからず起伏があります。山登りで言えば、頂上をきわめる絶頂期もあれば、谷底を下るような低迷期もあります。私たちの人生には、しばしば災いと呼ばれるような局面を通らなければならないような時があります。
それでは、何故、それが最善の人生だと言えるのでしょうか?それは、神が、時というものを知り、それをとらえて、事を行われる方だからです。どんなに災いと言われるようなことでも、時をとらえてそれを行なうならば、それは最善となり得ます。逆に、どんなに良いことでも、時を逸して行うならば、それは最悪となり得るのです。「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」(11節)。神は時を知り、時をとらえて事を行なわれるのです。そのとらえ方は、単にタイムリーということではなく、「美しい」とあるように、その絶妙な時の捕らえ方は芸術的 ですらあるというのです。神には寸分の狂いもなく、間に合わなかったということはないのです。
どんな事態が起こったとしても、そこには神の御手が届いています。神に見捨てられたという人はありません。必ずや、そこに主の最善のご計画があるのです。にもかかわらず、そう思えないのは、有限な存在である私たちには、「神のなされるわざを始めから終わりまで見きわめることはできない」からです。ここに人間の悲劇があります。
日本人の幸福観は、「鬼は外、福は内」という豆まきによく表わされています。「鬼」と呼ばれる災いはできるだけよそ様に行っていただき、「福」と呼ばれる幸いをできるだけ多くかき集める。大晦日に収支決算し、福が幾分多ければ「今年は良い年だった」とする、それが日本人の幸福観です。それに対して聖書の幸福観は、多くの幸いを抱え込むというものではありません。神が人生に対して最善の計画を与えて下さっていることを信じて、神に祈り、そして神に従うのです。そうすれば、どんなことが私たちの身にふりかかってきても、決して逃げ出すことのない幸いを神からいただくことができるのです。
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