開けよ マルコ 7章 31〜37節
そこで、イエスは・・・その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。(33〜35)
この人は耳が聞こえませんでした。けれどもこの男には友だちがいて、彼をイエスさまのところに連れてきてくれた。イエスさまは彼にエパタと語られました。すると彼の耳が開けた、音が聞こえ、話せるようになったのです。
1 話せない・聞こえない
@聖書は、神さまに聞く、御言に「聞く」ことの大切さを何度も語っています。私たちは本当に聞いているでしょうか。
Aもう一つの意味は「従う」ということです。神さまが何を望んでおられるのかも分かっているのに従わないとしたら悲しいことです。
B話せない・・・聞こえないから話せない。証しができない。そんな弱さを私たちも抱えているかもしれません。
2 耳を開いて下さる主
主はそんな私たちのところに近づいてエパタと語られます。そして主が語られるときに、今まで閉じていた耳が聞こえるようになるのです。
@聞こえる耳を
私たちは御言を通してイエスさまのみ声を聞く。耳が開かれると、神さまの「愛している」という声が、神さまが愛をもって語られる「罪から離れなさいと」という警告の声が、あなたには将来と希望がある という約束の声が聞こえてくるのです。
A耳のきよめ
レビ記を見ると、そこにはきよめの儀式の様子が書かれています。動物の血をその人の右の耳たぶと、手足の親指につけたのです。それは主イエスの十字架の血を指し示しています。主はその十字架の血をもって私たちの耳をもきよめてくださる。不信仰の声に惑わされないで、神さまの声だけを聞いて歩むことができるようにしてくださるのです。
B神のものに
イスラエルの国で、もしその奴隷がイスラエル人だったら、六年間仕えたら七年目は自由の身になれる。でも、主人が大好きで、そこを去りたくなかったら、その主人に頼んで彼を柱の所に連れて行って彼の耳にキリで穴を明けてもらった。そうしたら彼はすっとその主人の側にいることができた。それを「耳を開く」といったのです。時限付きではなく、強いられてでもなく、喜んで一生この主人に仕えていく。これはまさに強制はできません。でも、主よ、私の耳を開いてください、と言うなら主はあなたの耳を開いて、あなたをご自身のものとしてくださいます。主はあなたの耳をも開いてくださるのです。
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