この群衆がかわいそう マルコ 8章 1〜11節
「この群衆がかわいそうである」・・・イエスは・・・七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。・・・彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。(2,6〜8)
この時もイエスさまのところに大勢人が集まっていました。そして寂しい所であったにもかかわらず、三日間、イエスさまと一緒にいて、帰ろうとしない・・・主イエスは、この群衆がかわいそうである、とおっしゃいました。
1 かわいそうな群衆
主は本当に群衆の疲れを心配しておられました。私たちは信仰をもって歩んでいます。また神さまを愛し、人を愛して歩んでいます。けれども同時に、主は私たちが生身の肉体を持っておられることを知っていてくださいます。信仰が無いわけでは無い、神さまに仕えていないわけではない。でもそれでも私たちの肉体が疲れ、弱ることを主は知っておられるのです。
2 無策な弟子たち
ここで弟子たちは前回と同じ反応をします・・・でもどこでパンを買ったらいい?お金は?お金の心配とパン屋を捜す心配。いずれもとても現実的。前回五つのパンと二匹の魚で何が起こったかっていうことに心がいかない。神さまがどのようなお方か、また今までに私の生涯の中でどんなに大きな事をしてくださったかを忘れてしまう。
3 豊かな満たしを与えられる主
主イエスは弟子たちに、パンはいくつある?と尋ねられます。七つです。主イエスはそれで十分、さあ食事にしようと、感謝のお祈りをされる。そこにあるのは七つのパンと魚が少し。でも主はお祈りを終えると、そのパンを配っていかれる。弟子たちも何が起ころうとしているかもう分かる。前と同じことが起ころうとしている。前回起こった事は夢でも幻でもまぐれでも無い。主は同じことをしてくださる。二度あることは三度ある。そう三度目は私たちの生涯の中で起こるのです!
なあ、群衆がかわいそうだ、って言っても無理です。で、パンはいくつある? うん、もっておいで、わたしのところに持っておいで、私が祝福してそれを用いるから。そして、私たちは主イエスのお手伝いをする。かわいそうな群衆(?)が満腹して、世界で一番幸せな群衆に変えられていく。そのことがあなたの目の前で今も起こる。うん、もし私と一緒にいたら、全然かわいそうじゃない。あなたの生涯に大きなことが起こっていくのだから。私たちは神さまに期待して進ませていただこうではありませんか。
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